「世の中の役に立ちたい」気持ちが強すぎる若手社会人が陥りやすいワナとは?サカタカツミ「就活・転職のフシギ発見!」(2/3 ページ)

» 2013年09月02日 00時15分 公開
[サカタカツミ,Business Media 誠]
(写真と本文は関係ありません)

 もう少し分かりやすい例で説明してみましょう(あくまで架空の話です)。ある街があって、そこにはタバコのポイ捨てやちょっとしたゴミなどが駅前や周辺道路に溢れていて、お世辞にもきれいではないとします。そこで、ある人が立ち上がって「ひとりひとりがゴミを拾えば、街がきれいになって気持ちいいはず」と、ゴミ拾いのイベントを企画します。とてもいいことです。賛同者を募り、道具や諸経費を負担してくれるスポンサーを探し、活動を広報し、そして、実際にゴミ拾いのイベントを開催します。

 当日、アナウンスされたイベント内容に共感した参加者がどこからともなくやってきて、集合場所の前のテントには人だかりができています。スポンサーをかってでてくれた地元の商店街からのゴミ袋や軍手などを配り、皆さんよろしくお願いします、と声をかけ、ゴミ拾いがスタートします。ゴミ拾いをしている間、地元の小さなメディアが取材に来ていて、主催者であるその人はインタビューに応えたり、後から参加する人の対応をしたりと大忙しです。無事、たくさんのゴミを拾うことができ、参加者一同、満足感に満ちあふれます。おつかれさま、ありがとうございましたと、ゴミを拾ってくれた皆さんに声をかけ、主催者たちは撤収の準備をし、その後「よく頑張りました、楽しかったねー」と、近所の居酒屋で打ち上げをして、次回もやろうと決意します。

 この架空の話を読んでいてピンと来た人も多いでしょう。そう、最初に「ゴミを拾えば、街が奇麗になる」と考えた人は、結局ゴミは拾っていません。みんなでゴミを拾うイベントを企画して、成果は出しました。が、ゴミそのものを拾ったのは、賛同してくれた街の人たちです。そして、彼らはありがとうございましたというねぎらいの言葉はかけられましたが、打ち上げには参加しませんし、地元メディアに名前を取り上げられることもありません。

 なんでもないシーンなのですが、人の役に立ちたいと公言する人の多くは、「イベントに参加してゴミを拾う」のではなく、「ゴミを拾うイベントを企画し、自分自身はゴミを拾わない人になりたい」と考えていることもある。その辺りの意思の確認を怠ると、自分が働くことで人の役に立ちたいという言葉の真意を見抜けないで、頓珍漢なアドバイスをしてしまう羽目になるのです。

役に立ちたいと考えすぎて自分を見失ってしまうケースも

 こんな話をしていると、それは個人の資質の問題であって、一人でゴミを拾うよりも大勢でゴミを拾う仕組みを考えるほうが難しいわけだし、成果をあげることもできるじゃないか、という指摘が飛んできそうです。まったくその通りだと思います。

 仕組みを考えて他の人を動かすという行為は、誰にでもできることではありません。経験があるからそれができる、というわけでもありませんし(=私自身は、若手社会人と呼ばれる年齢の人たちが、次々と新しい仕組みづくりをしているのをいつも感心して見ています)若手なのだから下積みをすべきであるとも思いません。が、自分ではない他者の成功が、冒頭で「人の役に立ちたい」と公言して、起業まで考えてしまう若手社会人を生み出してしまうケースもあるのです。

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