ウイスキーづくりを学ぶために記した“竹鶴ノート”マッサンの遺言(3/3 ページ)

» 2015年01月02日 08時00分 公開
[竹鶴孝太郎・監修,Business Media 誠]
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遠い異国で迎えられた日本のウイスキー

 政孝親父はあまりものをとっておく性格ではなかった。ことさら亡くなる前は「これを捨ててくれ、あれも捨ててくれ」と書類からダンボールに入れた写真、古い扇風機にいたるまで何かと処分するように言われた。それでもいくつか取っておいたものもある。「ああ、あれは捨てなければよかった」と後悔したものも数多い。後の祭りである。

(出典:NIKKA WHISKY)

 かと思うと戸棚や押入れの中から思いがけないものが出てくることがある。あるとき、『G&G 白びん』と『アップルワイン』のミニチュアボトルが戸棚の奥から出てきた。『G&G 白びん』は、1968年10月下旬に発売された特級ウイスキーである。CMに登場したシャンソン歌手・越路吹雪さんの「じーあんじー」の歌声が懐かしく思い出される。

 ずんぐりと丸いボトルに淡いクリーム色のキャップ。発売当時は、760ミリリットルでアルコール分43%、小売価格は1900円であった。黒いラベルの中央には、以前の『スーパーニッカ』にも使用されていた山中鹿之助の「兜(かぶと)」をデザインしたエンブレムが描かれており、それを囲んで「POT STILL」「COFFEY STILL」そして「SUPER WHISKY AGED IN WOOD」の文字が記されている。

 『G&G 白びん』は、余市蒸溜所のモルト原酒と熟成に達した西宮工場の「カフェグレーン」をブレンドしたもので、同年10月5日には、「ホテルオークラ 平安の間」で新発売披露パーティーも行われた思い出深い商品の1つである。

 また、この年は、政孝親父がウイスキーづくりを志して1918年に渡英してからちょうど50年目の節目を迎えた年でもあった。『G&G 白びん』は、当時のソ連にも輸出され、『ホワイトニッカ』と共に小樽港からウオッカの国へと船出したのである。遠い異国で日本のウイスキーはどう迎えられただろうか。今でこそニッカのウイスキーは世界から高く評価されるようになったが、40年以上も前のことである。願わくは、「Вкусно(フクゥースナ=美味しい)!」と飲んでくれる人がいたなら幸いである。

 思いがけないものといえば、政孝親父のプライベートの手帳が出てきたこともあった。ウイスキーづくりを学ぶために記した“竹鶴ノート”には、たくさんのことがびっしりと書き込まれていたが、元来、政孝親父は細かくメモしたり、記録に残すことをほとんどしなかった。そして、たいがいのものは生前に処分してしまっていたが、黒い革製の『MY TRIP ABROAD』は捨て難かったのか残っていた。

 ページをめくってみると表紙の裏に小さく「2.50ドル」と書かれている。ニューヨークのブロードウェイで1925年7月に購入したようだ。奮発して良いものを買ったのか、なかなかしっかりした装丁で、いまだに型崩れもしていない。各国の時差や貨幣単位、郵便料金表などがあらかじめ記載されており、あとは日記とメモが書き込めるページが続く。

 日記やメモは英語で記されており、政孝親父とリタおふくろの筆跡が残る。内容は「何月何日に、どこへ行った」というものであるが、「Most happy day!」「The greatest day」という文字が躍っている日もあった。1925年といえば、リタおふくろが初めて里帰りした年である。2人は別々に日本を発ちスコットランドを訪れ、そろって日本に帰国している。帰国する前は離れていることもあったので、日記という形でコミュニケーションをしたのであろう。いわゆる交換日記のようなものであろうか。詳しい内容は政孝親父とリタおふくろに了承を得ることができないため、ここに書くことは難しいが、まさか私が読むなどとは想像もしていなかったに違いない。

 リタおふくろの手紙を見つけたこともあった。スコットランドの家族からのもの、そして私への手紙もあった。私が余市蒸溜所に、リタおふくろが東京にいたころ、手紙のやり取りをしていたのだが、つい返信が遅くなるとおふくろは不機嫌になったものだ。文章はもっぱら英語であり、私も英語で日常の出来事などを知らせた。電話や電子メールという便利なものがあっても、やはり手紙には見るたびぬくもりが感じられる。

 余市の山田町に家があったころ、蔵にはずいぶんとたくさんの絵が保管してあった。戦後に政孝親父が収集したものがほとんどで、なかにはウイスキーと交換したものもあったようだ。当時、骨董屋がよく家に出入りしていたが、絵を売ったついでにウイスキーを飲んで帰るときにはずいぶんご機嫌な様子だったのを覚えている。

 買った絵や骨董品は部屋に飾られることもあったが、そのまま雑然と置かれるものも多かった。私が絵画を季節に合わせて整理整頓すると、政孝親父は「おまえが絵に興味を持ってくれてうれしい」と喜んだが、私はただ部屋を片付けたいだけだった。

 リタおふくろのほうは、スコットランドから持ってきた思い出の品をとても大切にしていた。特に本は好きだったようで、寝室にある本棚に綺麗に並べられていた。当時、洋書は手に入りにくかったので同じ本を何度も読み返していたようだ。分野はサスペンスものが多く、「よく同じ内容の本を何度も読み返せるものだ」と感心したものである。

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