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» 2015年01月02日 08時00分 公開

ウイスキーづくりを学ぶために記した“竹鶴ノート”マッサンの遺言(2/3 ページ)

[竹鶴孝太郎・監修,Business Media 誠]

竹鶴ノート

 ニッカ館には政孝親父が渡英したときに使ったパスポートや記念写真に交じって、古いノートが展示されている。これがいわゆる“竹鶴ノート”と呼ばれるもので、スコットランドの蒸溜所で学んだウイスキーづくりについて、イラスト入りで克明に記されている。

 政孝親父が25歳のとき、リタおふくろとの新婚時代に5カ月間の実習をさせてもらったヘーゼルバーン蒸溜所は、スコットランドの西、大西洋に突き出たキンタイア半島の突端に位置するキャンベルタウンの町にあった。キャンベルタウンは米国への移民船が出入りする港町で、石炭の鉱脈に恵まれ、ウイスキーの原料である大麦が豊富にとれたことから、ウイスキーの産地として栄えたこともあった。

 政孝親父がこの地を訪れたのは1920年。グラスゴーから汽船で5時間かけて行ったらしい。当時の様子も“竹鶴ノート”に詳しく記載されているが、尺貫法に換算してあり、尺や石(こく)など数字を表す単位が旧式のものなので読み返すと難解な部分も多い。

 4年後に大阪の山崎に蒸溜所(※2)をつくるにあたっては、このノートがとても役立ったようだ。それでも、実習ノートや英国で手に入れた資料だけが頼りだったため、実際に機械を取り付けたり、稼動させたりすると疑問が出てきたようである。原料の大麦を乾燥させるには、天井に金網を引いて大麦を広げ、下からピートをたいて発芽した大麦を乾かす。その工程の、ピートを燃やすところから網までの正確な距離が分からなかった。そして、蒸溜機においては、石炭をたくところから釜の底までの距離がハッキリしない。くまなく記録したつもりだったがノートに記録が残っていなかったため、改めて、政孝親父はわざわざ英国へ行き、それぞれの距離を測ってきたという。初めて物事を立ち上げるには想像を絶する労力が必要とされるものである。

※2 現・サントリー山崎蒸溜所(1924年竣工)。竹鶴政孝は、帰国から2年余りを経て、寿屋(サントリーの前身)へ入社し、当蒸溜所の初代工場長に就任した。

(出典:NIKKA WHISKY)

 実は、展示されているこの“竹鶴ノート”はしばらくの間、われわれの手元から離れていた。政孝親父がスコットランドから帰国したとき、当時勤めていた摂津酒造の上司である岩井喜一郎氏へ報告書代わりに提出。岩井氏はそれを保管するようにと、彼の親戚である玉利六雄氏に預けたのである。やがて玉利氏からノートの存在を知らされ、当然「ぜひ見せてほしい」ということになった。ノートは大切に保管されており、「これはわが家の家宝だから……」とおっしゃるので、コピーをしてからお返しする、ということでいったんノートを預かった。蒸溜機などの設備のイラストや製造過程がびっしりと記され、写真も貼ってある。

 コピーを終えたのでノートをお返ししようとしたところ、玉利氏は「このノートは、やはりニッカウヰスキーさんにあってこそ価値があるものです。私にはコピーしたほうをください」とコピーのほうをお受け取りになったのである。

 感激した私は、彼を余市蒸溜所にご案内した。たいそう喜んでくださり、私もまた喜ばしい気持ちであった。政孝親父が記したノートを家宝と呼び、また、ニッカウヰスキーに親愛の情を表してくださったことにどれほど感謝したことだろう。

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