「サステイナビリティ」をテーマにNYで起業した女性が語る、企業が直面し始めた課題とは?日米のビジネス事情の違いを知る(2/8 ページ)

» 2015年07月20日 07時28分 公開
[公文紫都ITmedia]

日本人が行っている「外から理解されにくいこと」を、正しく伝えるために米国に来た

関: 関口さんは、長い間米国の通信業界にいらっしゃった後に、ニューヨークで起業されたんですよね。元々はどういう経緯で、米国に来られたのでしょうか?

関口: 初めは、教師として米国に来ました。人に物を教える仕事がしたくて、当時の時代背景から、「外国人に日本語や日本文化を教える」先生になろうと決めたんです。私が大学生だった1980年代は、日本が非常に輝いていた時代で、「日本はどういう国なんだ?」「文化は?」「ビジネスは?」「日本語は?」と、日本語や日本文化を学びたい学生が世界中から集まっていました。

 そうした半面、ジャパンバッシングの風潮もありました。例えばニューヨークにあるロックフェラーのタワーを日本人が買収して、すごくバッシングされたとか。そういうのを見て、「もしかして日本人は、他国の人に理解されにくいことを外で行っているんじゃないか?」って思ったんです。もちろんこの買収劇も、日本人が「ニューヨークを買い占めたい」と考えてやったわけじゃなく、たまたまそういうディールがあったから、話がまとまっただけのことじゃないかと思います。

 ですから私が真ん中に入って、どうにか外向けに理解を深める役割が果たせないかなと、日本語や日本文学、日本の文化を、外国人に教えるポジションを探しました。

 そうして仕事を探しているうちに、米国のペンシルベニア大学で、3年ほど日本文学を教えることになりました。優秀な生徒たちと共に有意義な時間を過ごしていたのですが、この先も教える、もしくは大学に残る道を選ぶとなると、それはつまり研究者になることを意味します。

 当時私が専門としていた言語学を研究し続け、論文を書いたとしても、本当に興味を持ってくれるのは、1〜2人くらいしかいないでしょう。そこに一生賭けて、何人かにしか分からないような仕事を続けるべきか? と悩んでしまって……。それで再び学校に戻り2年間、ワシントンD.C.にある、ジョージワシントン大学大学院で国際関係論を専攻しながら、「FCC(Federal Communications Commission。連邦通信委員会。アメリカ国内の放送通信事業の規制監督を行う)」でインターンをしました。

関: なるほど、そういう流れで通信業界に入ったわけですね。

関口: はい。大学院卒業後は、かつて米国にあった大手通信会社「MCI」に、インターナショナルマーケティングのマネージャーとして入社し、2年ほど在籍した後に、「PwC(プライスウォーターハウスクーパース)」で戦略コンサルタントになりました。この時にニューヨークに来ました。1998年のことです。

米国の通信業界で活躍した後に、ニューヨークで起業した関口匠子さん(右)

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