“分を知る”ことは大切です:ちきりんの“社会派”で行こう!(2/2 ページ)
お金がないのにブランドものを身に付けたり、一日中働いているのにハイヒールを履いたり……。自分の属している社会階級の“分”から外れたことをすると結局は不幸な結果になる、とちきりんさんは訴えます。
総中流社会には“分”という概念がない
ちきりんは日本の総中流意識と、この「局地的に頑張る」一点豪華主義的な消費スタイルは奥底でつながっていると感じます。「母親がスーパーのレジでパートとして働いて、子どもを中高一貫の進学校に通わせる」のは一点豪華主義のこだわりと言えますが、社会階級クラスが明確な社会ではこういうことは起こらない。一部だけ背伸びしても「ひっくりかえせないものがある」とみんなが分かっているからです。
総中流社会には“分”という概念がない。みんな同じ“分”だから、あるものが手に入るか手に入らないかは資金力だけの問題だと理解される。だから「資金を一点に集中させたら自分にも手に入るはず」という話になり、それが「局地的に(例えば“子ども”だけには)集中して頑張る」という方法論につながっているのではないでしょうか。
でも、そういう頑張りは長期的にはどこかで無理が出るのではないかと思うのです。ハイヒールを履いて1日働くだけなら大丈夫ですが、ずっとそんなことをやっていると足がゆがんでしまうのと同じように。
三浦展氏がベストセラー『下流社会』の中で、「下流の特徴は経済力のなさではなく、むしろ上昇意欲のなさだ」と指摘していました。確かにそうかもしれないと思います。
でも、それは必ずしも悪いことではないでしょう。「分を知る」というのは、気楽に楽しく生きる方法であり、自分を守る方法とも言える。無理してブランドものの鞄を買わなければその分、生活に余裕ができるのですから。
ちきりんは最近、自分の“分”を見極めて、そのあたりで生きていきたいとよく思います。以前は「“分”を超えようとすること=志を高く持ち、前向きに努力する」であり、それが成長につながったり、よりよい自分につながることかと思っていましたが、最近は「ちょっと違うかも」と思います。
“分”を超えようと努力するのは一見良いことに見えますが、結局は長い間にストレスがたまる結果とならないでしょうか。無理して背伸びを続けるのは、毛皮を着て地下鉄に乗るような滑稽な話なのではあるまいか、と感じるのです。
自分の“分”を知り、そのあたりの範囲で生きることは、自然で無理がかからない。それを見極めてその範囲内で人生を楽しもうとすることを「下流思考」と言われるのなら、それも甘んじて受け入れよう。そんな風に思います。
そんじゃーね。
著者プロフィール:ちきりん
関西出身。バブル最盛期に金融機関で働く。その後、米国の大学院への留学を経て現在は外資系企業に勤務。崩壊前のソビエト連邦などを含め、これまでに約50カ国を旅している。2005年春から“おちゃらけ社会派”と称してブログを開始。
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