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Winny事件判決の問題点 開発者が負う「責任」とは寄稿:白田秀彰氏(2/3 ページ)

» 2006年12月17日 09時44分 公開
[白田秀彰(法政大学),ITmedia]

 さて、刑法典および罰のある法文の運用解釈は、明確かつ厳密でなければならず、また判決に用いられる概念や定義は、それまでの裁判や学説によって精密に仕立てられたものを用いなければならない(=罪刑法定主義/謙抑主義)という原則がある。また、ある人を刑事裁判において有罪とするために考慮すべき条件がある。それは、(a)犯罪の意図(=故意)と(b)処罰を与える法律の条文に記されている条件に当てはまる行為をしたという事実(=構成要件該当性)と(c)誰かの権利利益を侵害する結果だ。全部がそろえば文句なく有罪になる。ところが、これらが全部そろわないと、どの程度までそれぞれの条件を緩和するかが議論になったり学問的な論争になったりする。

 幇助についても、それらの条件がある。それは、(a')法律によって禁じられている誰かの行為を助けようとする意思(=幇助の故意)が被告人にあったか、(b')その幇助の故意は、なんらかの被告人の行為によって外界に作用したか、(c')その行為によって、実際に法律によって禁じられている誰かの行為が容易になったかということになる。

 京都新聞から送ってもらった、判決骨子で見るかぎり(判決文そのものは、なかなか手に入れにくい。不思議なことに被告人その人でもすぐにはもらえない)、裁判所の認定では、「侵害事件」のころ、すでに(a'')「Winnyが不特定多数者によって著作権者が有する公衆送信権を侵害する情報の送受信に広く利用されている状況にあることを認識しながら」(b'')「その状況を容認し、あえてWinnyの最新版であるWinny2……を……ホームページ上に公開し……ダウンロードさせて提供し」たことが幇助に該当すると判断している。そして、その結果として(c'')「被告人が開発、公開したWinny2が……各実行行為における手段を提供して有形的に容易ならしめたほか、Winnyの機能として匿名性があることで精神的にも容易ならしめたという客観的事実は明らかに認められる」としている。で、「結局、……外部への提供行為自体が幇助行為として違法性を有するかどうかは、その技術の社会における現実の利用状況やそれに対する認識、さらに提供する際の主観的様態」にかかっているとまとめている。

 極めて簡単に言えば、「Winnyが違法コピーに広く使われているってこと、知ってたでしょ。それにもかかわらず、Winnyの改良をしたでしょ。だから幇助」ということになる。この判決骨子の論理では、「画期的なソフトウェアを開発したプログラマが、実験的にリリースしたら、利用者に思いもよらない使い方をされてしまった」というだけでは幇助にならない。また仮に「思いもよらない使い方で反社会的な効果が生じてしまった」と認識した後に、とくにその反社会的な効果の拡大につながる積極的行為をしなければ幇助にならない。だから、「ヤバい」と思ったら配布公表を停止すればよいことになる。それ以上の責任、たとえばソフトウェアの回収とか削除までしなければならない等は、どこにも述べられていない。

 だから、この事件が一般的に「プログラマや技術者に無理解な不当な判決であり、今後新しい技術を開発するにあたって萎縮効果をもたらす」というのはやや誇張された主張で、金子氏や弁護団のみなさんがこの点を声高に言い過ぎると、かえって金子氏の立場の正当な要素を損ないかねないと危ぐする。もちろん、このくらい簡単に誇張して言わないとマスコミの人たちや一般の人たちに分かってもらえない、という気持ちも良くわかるんだけど。あくまでも「幇助概念」に関する法律論が主戦場である本件判決を、無理して別の価値に関する議論の文脈におくと、たぶん、なにかがゆがみはじめる。

 では、本判決に問題がないかといえば、ある。それは、(α)自らの作り出したモノがどのように社会的に受容されているかを把握する責任を設定したこと、(β)幇助の故意について「他人の違法行為」の認識がかなりの程度抽象的でも構わないとしたこと、そして(γ)犯罪行為と幇助行為との因果関係がソフトウェアについて、他のモノより強く認定されたことだ。

 (α)の点について。「自分の作りだしたモノについて責任を負うべし」という直感的な責任論は、よくみられる。たとえば「自分の発言には責任をもて」とか「子のすることは親の責任」とか「汚染物質を排出する企業は公害の責任を負え」とか「消費者保護のための企業の製造物責任」とかだ。でも、道義的責任はさておき、法律の世界では、法律が要求している以上の責任を負わないのが原則。ソフトウェアには「言語による作品」という要素もあるから、言論表現の自由によっても保護されうる要素がある。だから、ソフトウェアそのものがわいせつ物や名誉・信用毀損に該当しないかぎり、内容を理由として法的責任を問われることはない。そのソフトウェアが企業の製品である場合は、近年の企業の社会的責任を問う風潮に沿って何らかの社会的責任を負わされるかもしれない。ただし、現在のところ、ソフトウェアは製造物責任法から除外されている。だから、バグありソフトに対しても企業は法的責任を負わない。

 ところが、本件判決の理由をみると、自分の開発した技術がもっぱら反社会的効果を発揮していることを認識したなら、それまでの自分の行動を変化させなければならないということを要求している。さすがにWinnyほど有名なソフトウェアになれば、取り立てて努力しなくても、どのような社会的効果が生じているか知りうると思うし、本件もその部分を強調している。でも、自己の開発した技術がどのような社会的効果を発揮しているのか、どの段階で技術者は「知るべき」なのか基準がない。最初のリリース時には、その製品のもたらす社会的効果について知る由もないのだから、開発者は免責されるだろう。でもその後の改良などにおいて、「どんな風に使われているかな?」「どんな社会的効果があるかな?」ということを開発者が気にしなければならないとするなら、これまで企業にすら法的に要求されていない責任を個人の技術者が追わなければならないことを意味しないか。

 そういう意味で、本件判決は、金子氏や弁護団がいうように技術開発や公開に対して萎縮効果をもっている。だから、本判決の理由をプログラミングや技術一般に拡大して適用することは適切ではない。あくまでもネット界を沸騰させ、雑誌で取り上げられ、有名であったWinnyというソフトウェアの社会的影響について、金子氏は知っていたはずだと裁判所が判断したことを強調しておきたい。これが判決骨子において「4 被告人の主観的様態」が長々と論じられている理由だろう。

 (β)の点について。「いつ、どこで、誰が、何 or 誰を、どうするのか」というのが、物事を具体的に特定するときの要素になる。で、これらの要素を全部認識して、その行為を幇助すれば、ばっちり幇助の故意があるといえるだろう。ところが、犯罪を幇助する人が、それらの要素を全部認識してない場合がほとんどだ。で、これまでは犯罪を実行する人(=正犯)の行為を認識していればよくて、相互に犯罪を実行する意思と幇助する意思を交換する必要はないとされていた。

 現実世界において幇助は、具体的な犯罪実行時あるいはその着手の段階で同時的に行われるのが普通だったので、幇助する人の認識は具体的であったといえる。たとえば、殺人事件の凶器として包丁が使われても、包丁の販売者や製造者が幇助の責任を負わないのは、具体的な殺人行為について認識する余地がないからだ。逆に、けんかが始まったとき、そのけんかに参加している人物であることを知りつつ包丁を販売した販売者は、幇助の責任を問われる可能性がある。これは具体的に暴行傷害行為が行われていることを知っていたからだ。

 本件では、金子氏が個別具体的な著作権侵害について認識していなかったとしても、自らのソフトウェアが著作権侵害行為に使われていると認識していれば幇助になる、としている。これは「概括的故意」──たとえば多数の人がいるところで爆弾を投げ込めば、誰がいつとは特定しないにしても誰かが死ぬだろうというような、抽象的な故意のことを言う──と似た、「概括的な幇助の故意」ということになるだろう。いつ、どこで、誰が、何をということは知らないが著作権侵害が行われていることは認識していたはずだ、と裁判所は考えた。これは、従来の幇助の故意をより抽象的な水準でも認めたことになる。この拡大が、刑事裁判における謙抑の原則と調和する範囲にあるかどうかが問題になるだろう。

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