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コンテンツという「言葉」の限界西正(1/2 ページ)

» 2005年03月04日 14時07分 公開
[西正,ITmedia]

 わが国では今、至るところで「コンテンツ」という言葉が使われている。役所の公式な研究会の場でさえ、「コンテンツ流通の活性化」といった具合にコンテンツのオンパレードだ。映像ビジネスの場に限らず、「コンテンツ」という単語はもはや立派な「日本語」として、あらゆる所で通用している。

 この言葉が使われるようになった経緯だが、おそらくは「放送と通信の融合」といった標語と同じように、ハードとソフトが対比される中で、いわゆるソフト(内容物)を指すものとして使われ始めたように記憶している。ただ、皮肉なことには、「コンテンツ」という単語がまかり通り出した辺りから、肝心の「放送と通信の融合」も難しいものとなってきてしまったのではないかと思われるのだ。

「コンテンツ」とは

 ここ数年、映画や放送の制作現場にいる人たちの間からは、自分たちが作り出す作品を「コンテンツ」と呼ばれることへの反発の声が強まってきている。そこには単なる呼称の問題とは違う、十分な説得力があることに目を向けるべきだろう。

 問題は、“コンテンツ”という言葉を使っている限り、箱物行政と同じ失敗を繰り返しかねないということなのだ。

 放送・通信のハードに対しては近年、莫大な設備投資を行ってきている。それを回収するためには、多くの人がそこを利用するような仕掛けが必要だ―― 一見見正しいようだが、この発想は逆立ちしている。立派な道路を作る以上は、そこを通る人を生み出す仕掛けを仕掛けを作らなければいけない、という発想で進められてきた道路行政に対し厳しい批判があったのとまったく同じである。

 わが国の現状を見ると、ブロードバンドの高度化、普及の拡大と、期待された以上の発展をしてきた結果として、インフラは整った感がある。“内容物(ソフト)”は、その立派なインフラに乗せていくだけのものがそろっているのかという視点からだけ、語られている側面が強い。これは否めないだろう。

 コンテンツという言葉が幅を利かせるのも、通信事業者側からの見方がスタンダードとなり、あくまでも、通信インフラという容器に入れる中身というニュアンスで捉えられているからと考えられるのである。

 しかしながら、視聴者、もしくはユーザーの立場から言うと、そもそもは立派な伝送路を欲していたわけではなく、高度化したツールを欲していたわけでもない。ユーザーが欲しているのは、そのインフラを使うことによって得られるソフトの方なのである。簡単に言えば、ソフト制作者が自立することによって、ソフト産業というものが磐石になることによって初めて、いわゆるインフラの部分が活用されるという順序で進んでいかなければいけないのだ。

 ソフト産業そのものを、きちんと活性化できるような環境を作り上げるための基盤として、ネットワークが整備され、ツールも高度化してきたと、今一度よく考えるべきであろう。「コンテンツ」という言葉では表せないはずのソフト産業が、どうやったら人材を育て上げていくことができるかという点に、活性化させるための鍵があるように思われる。

 現在の最大の課題は、ソフト産業が自立していけるようになるにはどうすればいいのか、ということに、放送事業者も通信事業者も腐心していけるかということに尽きると言っても過言ではないのだ。

ミドルメディアの価値

 技術の進歩によってミドルメディアというものが、それなりの市場性を持つようになってきたことも見逃せない。

 例えば、アテネ五輪の最中、いわゆるオリンピック番組が50%以上の視聴率を取っていた時に、その裏では視聴率2%、3%という番組が放送されていた。2%や3%という数字では、いずれ地上波やマスメディアから消えていくことになると考えられがちである。

 しかし、オリンピック番組のような50%を取るようなものの裏でも、2%、3%の視聴者にとって見たいソフトがあったということは厳然たる事実である。そして、それを生かせるのがミドルメディアなのだ。

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