朝ドラで大ブレークの五代友厚、といえば女好き歴ドル・小日向えりの「もしあの武将がネットサービスを使ったら……」(2/3 ページ)

» 2016年03月26日 08時00分 公開
[小日向えりITmedia]

長崎でグラバーと出会う

 五代は、1835年(天保6年)、鹿児島の城下町、城ケ谷に生まれました。才助という名の少年時代は、海外に対する知識欲旺盛(おうせい)だったそう。ペリーの黒船が浦賀沖に来航したときは、「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と、ほかの幕末志士と同様、奮い立ったそうです。

 明治維新後、官界に入り外交官、官僚として大久保利通や大隈重信などと交流します。やがて実業界に転じ、大阪を拠点に産業の近代化に貢献しました。この間、大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪堂島米商会所、大阪商業講習所を設立し、指導者的立場で大阪財界を支えました。

大阪経済の恩人である五代友厚(出典:大阪商工会議所) 大阪経済の恩人である五代友厚(出典:大阪商工会議所)

 英語を堪能に話す姿が爽やかな五代様。父親が薩摩藩お抱えの儒学者であったことから、開明派として知られた藩主・島津斉彬の薫陶を幼少期より受けていました。「才能にあふれた男」という意味で「才助」という名をつけたのも斉彬です。グローバルな側面が頭角を表すのが、14歳で世界地図を模写したという経験です。

 斉彬より手に入れた世界地図の模写を命じられた父は、14歳だった五代にも地図を2枚写させました。五代は1枚は斉彬に献上、もう1枚は自分の書斎に掲げ、さらにはこれを参考に直径60センチあまりの絹製の大地球儀まで作りました。

 五代少年は日々地図や地球儀を眺めながら、日本と同じ島国で小国であるイギリスが隆盛を極めていることに、わが国もかくあるべしと思ったといいます。私も小さいころに初めて世界地図で「日本はここだよ」と教えてもらったとき、日本の小ささに仰天したのを今でもはっきり覚えていますが、14歳で地図を写してイギリスに着目するとは、着眼点と発想が凡人とは違いますね。

 五代は1863年の薩英戦争では、捕虜となって罪人扱いされ、幕吏や攘夷派から逃れるため長崎に潜伏しました。その前後に親しくなったのが英国貿易商、トーマス・ブレーク・グラバー。五代がグラバーとともに作った国内初の西洋式ドックが小菅修船場です。この通称ソロバンドックは、今も長崎市で見ることができます。

 そんな苦労の中、イギリスの強さを体感したことでしょう。富国強兵論と開国を主張するようになります。藩にイギリス・フランスへの留学生派遣を上申し、32歳のときに留学生を引率してイギリスをはじめヨーロッパ各国を歴訪し、見聞を広めました。帰国後は、銅山の技術、株式取引などさまざまな海外の仕組みを日本に取り入れ、日本の殖産興業発展に貢献しました。

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