最近、テレビなどでよく見かける「歴史の教科書が変わった」という特集。「イイクニつくろう鎌倉幕府」の語呂合わせで覚えた1192年鎌倉幕府成立が、今の教科書では1185年になっていると聞いてショックを受けた方もいらっしゃると思います。
ほかにも、「士農工商という身分制度はなかった」「鎖国制度はなかった」、さらには「聖徳太子という名の人物はいなかった」など研究が進むにつれ、歴史の教科書は塗り替えられています。
鎌倉幕府の年号については、私も最近よく質問を受けるので簡単に書くと、そもそも「幕府」という概念は当時ありません。もちろん、源頼朝が「今日から鎌倉幕府です」と発表したなんてこともなく、明確にいつ幕府を開府したかと断定するのは非常に難しいのです。
これまでは、源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年を幕府の成立とみなしていたのですが、近年、頼朝が守護・地頭の設置の権限を得た1185年だという解釈が支持を得るようになりました。日本全国への守護・地頭を設置できるということは、頼朝の支配が全国におよんでいて、実質幕府があったと考えられるということです。1185年は壇ノ浦の戦いで平家が滅ぼされた年でもありますね。
さて、私にとっては鎌倉幕府の年号よりも衝撃的だったことがあります。武田信玄の新事実です。
この上の肖像画は、信玄公の菩提寺、高野山成慶院が所蔵する長谷川等伯筆のものです。厳格な表情、ハの字の口ひげにでっぷりとした体格は威厳があり、いかにも諸国を侵略していった甲斐の虎・信玄のイメージそのもの。ハゲあがった頭に、濃いモミアゲは男性ホルモンがムンムンと放出されている……そんな印象を受けます。
しかし、最近の中学生に聞くと、信玄はこの人だと言います。
だ、誰ですか?
面長で、華奢な体格。武士らしくきちんと直垂を着る様子が爽やかで、なかなかイケメンです。高野山持明院に伝えられたこの肖像画が、今の教科書に載っている信玄。直垂に武田家の家紋である「花菱」が描かれていることが裏付けです。
では、今まで信玄公だと思っていた肖像画は誰だったの!?
肖像画には何もいわれが書かれていないのではっきりしたことは分かりませんが、今のところ畠山義続という説が有力だそうです。腰刀の目貫や太刀には畠山家の「二つ引両」という家紋があしらわれています。確かに、信玄の肖像画に全く武田家と関係ない家紋を入れるとは考えづらいので、今まで信玄と信じていたこの人が、違う人だったことはほぼ確定です。
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