任天堂の家庭用ゲーム機「Wii」の企画担当として、私がどのように初期のコンセプトワークや、それを伝えるためのプレゼンテーションなどに取り組んできたかについて、前回、前々回でご紹介しました。
いよいよWiiのコンセプトが定まり、社内からの理解を得られたことで、話はプロジェクトの内側、実際のWiiの開発と全仕様の決定へと進んでいきます。
Wiiの具体的な開発プロジェクトがスタートしてからすぐのころ、岩田(聡・任天堂前社長)さんは開発現場にリクエストを送りました。
「Wii本体を、DVDケース2つ分にできないか」
Wiiの前世代機「ゲームキューブ」の互換性と安全性を確保しながら、本体を小さく作る。ユーザーの方々はあまり意識されないかもしれませんが、これだけでも膨大な作業が待っています。Wiiの本体は「ただの直方体」に見えるかもしれませんが、その形をよく見ると、Wiiのコンセプトがこれでもかと目一杯に詰め込まれています。
一般論として、Wiiのような大規模なプロダクトを作るとき、プロジェクトがスタートした段階ですべての仕様が決まっていることはまれです。たとえコンセプトが明確に定まっていたとしても、コンセプトから仕様を導出する作業は困難を極めます。コンセプトを咀嚼(そしゃく)しながら、徐々に仕様という具体を形作っていくわけです。
Wiiの本体はなぜ白い? これにも明確な理由がある
では、なぜWiiはDVDケース2個分にする必要があったのでしょうか。
当然のことながら、その理由はコンセプトに求めるべきです。「家族皆でリビングで遊ぶ」「お母さんに嫌われない」といったWiiのコンセプトや、さらにその上流に存在する「ゲーム人口の拡大」という任天堂の戦略。これらからDVDケース2個という答えを導き出すことこそが、仕様の検討作業にほかなりません。
読者の皆さんも、もしよろしければDVDケース2個分の理由について、ちょっと考えてみてください。ちなみに、結果的にWii本体のサイズはDVDケース3つ程度になりました。今でもWii本体を見るたびに開発陣のし烈な努力を思い出し、胸を突くものがあります。
- 競合ゲーム機「PSP」の脅威が任天堂社内を変えた
「Wiiのプレゼンテーションを最も多く経験した男」。任天堂の岩田元社長からもそう評された玉樹さん。本連載では、Wiiの開発担当者として、いかに商品を生み出し、世に広めていったか、そのプロジェクトのリアルをお伝えします。
- どうやってWiiのコンセプトを広く伝えていったのか?
「ゲーム人口の拡大」という任天堂・岩田社長の言葉の下で、徐々に「Wii」のコンセプトが形作られました。しかしそれは当時のゲーム市場においてあまりにも斬新だったため、そのコンセプトを社内、そして社外へと伝えていくのに悪戦苦闘したのです。
- ファミコンブームの誕生とハドソン成功の理由
任天堂が発売した家庭用ゲーム機「ファミコン」は、80年代を代表する社会的な大ブームを巻き起こしました。どのようにしてそのブームはでき上がっていったのでしょう? その裏側にあったものとは? 立役者の一人である高橋名人が語ります。
- “オヤジ”たちが今なおミニ四駆に熱狂する理由
模型メーカーのタミヤがレーサーミニ四駆を発売してから30年。かつて社会現象となったミニ四駆が、今また盛り上がりを見せているのをご存じだろうか。タミヤの社員としてミニ四駆の誕生から携わり、「前ちゃん」という愛称でブームの火付け役としても尽力した前田靖幸氏がその舞台裏を語る。
- 高橋利幸が「高橋名人」になった日
ファミコンブームの訪れとともに誕生した「高橋名人」。ハドソンの宣伝部に所属する一社員がどのような経緯で名人へと生まれ変わったのでしょうか。当時の裏側のエピソードを交えて高橋名人が語ります。
- なぜ「ビックリマン」は年間4億個を売り上げるまでのブームになったのか?
1980年代後半、日本中の子どもたちの間で爆発的なヒット商品となったのが「ビックリマンチョコ」だ。なぜビックリマンは年間4億個も売れるほど大ヒットしたのだろうか……?
- 辛くて苦しいトレーニングでも、デビュー前から20年以上続けられた理由
「継続は力なり」と言いますが、私がデビュー前の下積み時代から今でもずっと続けているのはトレーニングです。アスリート並みにしごかれるので、決して楽ではありません。それでも続ける理由があるのです。
- 最初はまったく売れなかった明太子、どうやって福岡から全国区に?
日本で最初の明太子メーカーが、福岡市中洲に本社のあるふくやだ。創業すぐに明太子の販売を始めたが、実に10年間も鳴かず飛ばずだったという。そこからいかにして明太子は福岡の名産品にまで育ったのだろうか。
- 任天堂のDNA「ブルーオーシャン戦略」の行く末
任天堂の戦略は「ブルーオーシャンである」と言われていますが、ブルーオーシャンはすっかり下火に。その背景を明らかにするとともに、日本企業が今後、任天堂と同じ戦略を展開した場合、実効性が上がるものなのかどうか、その可能性を探ります。
- 激戦ラーメン市場、それでも「一風堂」が選ばれ続ける理由
31年前に福岡で創業したラーメンチェーン「一風堂」の成長が止まらない。国内外で出店攻勢をかけているのだ。1年間で約3600ものラーメン屋が閉店に追い込まれる激戦市場において、なぜ一風堂は顧客に選ばれ続けているのだろうか。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.