こんにちは、高橋名人です。
今回は、空前のファミコンブームの訪れとともに、なぜ私が「高橋名人」になったのか、その経緯をお伝えします。
大人気だったファミコンソフト『高橋名人の冒険島』(ハドソン)。ついにはゲームキャラクターにもなった
まず、なぜファミコンはブームになったのでしょうか。これはさまざまな要因が絡み合って生まれたということに尽きます。
その火付け役の1つには、1985年9月に任天堂が発売し、681万本を売り上げたソフト「スーパーマリオブラザーズ」が、子どもたちの間で急速に広まっていったことがあります。また、一大ブームが到来する瞬間、つまり1986年1月〜3月ごろは、店頭からファミコン本体が消え、ほしいけども品切れで手に入らない時期が続き、それが消費者のさらなる購買意欲をかき立てたと言えるでしょう。
もちろん、任天堂だけに限らず、さまざまなゲームソフトハウスから、魅力的な新作が発表されていったということも大きな要因です。
これらが作り上げたブームの渦は、限りなく巨大化していきました。私もその渦の中心にあった1つであることは否めません。
では、高橋名人はどのように誕生したのでしょうか。
1985年4月15日発売の少年漫画雑誌『月刊コロコロコミック』において、記事ではありませんが、5月開催のイベント「コロコロまんがまつり」の告知の中に、「高橋名人」という文字が登場します。これが雑誌での初登場です。
そして、5月3日に千葉県柏市で開かれた「コロコロまんがまつり スターフォース発売前大会」にて、高橋名人として参加者の前に出たのが、いわばデビュー戦でした。
コロコロまんがまつりで名人デビュー
そこに至るまでの経緯について、多少長くなりますが、説明したいと思います。
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