高橋利幸が「高橋名人」になった日高橋名人が語る(5/7 ページ)

» 2016年05月25日 08時00分 公開
[高橋名人ITmedia]

ファミコンブームとピッタリ重なった

 そして7月21日、ついにキャラバン初日を迎えました。このイベントの1日をスケジュールにしてみると、

06:00 起床

07:00 ホテルフロント集合

07:30 現場集合&搬入開始

09:30 セッティング終了(現地スタッフ、子どもたちの整理など)

10:00 子ども入場

10:30 午前中の大会開始

13:00 午前中大会終了

13:30 午後大会の入場。ディレクターは次会場へ移動&翌日の打ち合わせ

14:00 午後大会開始

16:30 大会終了。片付け&搬出開始

18:00 搬出終了

    キャラバンカーは、次会場宿泊先へ移動

    私とMCは、電車などで次の会場の宿泊先へ移動

21:00 フロントに集合

    食事&反省会&翌日の打ち合わせ

23:00 就寝

    私はコントローラーの整備&就寝


 とこんな感じでした。今振り返れば、若かったんだろうなぁと思うばかりです。

 こんな中で、ラジオ体操の先生のように、大会前に見本を見せるプレイヤー、そしてMCとして高橋名人としての活動が始まりました。ただ、この夏休みの間は、まだコロコロをはじめとした子どもの世界だけでのことでした。それが、世間一般に広がったのは、85年12月に開催した、「クリスマス ファミコンフェスティバル」というハドソンとコロコロが共催したイベントです。

 コロコロと、当時私が出演していたTV東京の「おはようスタジオ」での告知だけで開催したイベントなのですが、ふたを開けてみると、早朝から並び始めた子どもが3000人を超えていたのです。このイベントは取材され、翌日の東京新聞の見開き3分の2ほどの記事になったのです。

 ちょうどその年の9月末に、任天堂から「スーパーマリオ」が発売され、徐々にファミコンの人気が上がっていたこともあり、マスコミもその盛り上がりを記事にしようとしていた時期だったのだと思います。

 東京新聞に掲載されたことで、マスコミからの取材が集中し、子どもだけだった小さな世界から一般の方まで広く知られるようになりました。

 さらに翌86年3月に発売したソフト「忍者ハットリくん」が、発売日に100万本も販売され、その注目の高いゲームの攻略法をTV番組で紹介していたのも、高橋名人が知られていく後押しとなりました。

 今では、ゲーム業界に限らず、何かのヒット商品について説明できる人は、数多くいると思います。しかし、85年当時は、今では「マリオの生みの親」として有名な任天堂の宮本茂さんをはじめ、会社員が取材の対象になるということはあまりなかったのです。

 そこにたまたま、私(=高橋名人)という存在があったことと、ファミコンの大ブームが重なったことで、世間からの注目を浴びる結果となったのです。

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