長く売れ続ける「定番」を狙う デザイナー・小関隆一氏のモノ作り哲学とは?「全力疾走」という病(4/7 ページ)

» 2016年06月30日 08時00分 公開
[伏見学ITmedia]

卒業式当日まで就職決まらず

 そうした大学時代はあっという間に過ぎ、卒業が近づいてきた。ほかの同級生たちは4年生を前に就職活動を始めて、テレビ局やゲーム開発メーカー、内装会社などから内定を獲得していった。一方で、小関は取り立立てて就職活動は行っていなかったが、アルバイト先のデザイン事務所も採用はないということで、「卒業してもしばらくはアルバイトを続けるか」と考えていた。

 すると卒業式当日、「うちで働いてみないか?」という声が掛かったのである。その相手は日本を代表する工業デザイナー、喜多俊之だった。今もなお小関にとって師匠に当たる人物である。

 喜多と言えば、1960年代末からイタリアをはじめとした海外でも活躍したデザイナーで、彼を世界的に有名にしたのが、1980年にイタリアの高級家具ブランド「CASSINA」から出た「WINK」という椅子だ。発売から36年経った今もベストセラーで、同ブランドの商品カタログに30年前からずっと残っている椅子はこれを含め数脚しかない。日本では、電機メーカー・シャープの液晶テレビ「AQUOS」のデザインを長らく手掛けた。

 入社して以来、とにかく大変だったのが、イタリア流の喜多の仕事についていくことだ。慣れるまで5〜6年はかかったという。イタリアの職人と仕事をする際、デザイナーは詳細に指示をしすぎてはいけないのだという。それが職人の仕事やクリエイティビティを制限してしまうからだ。従って、最初はスケッチだけでも問題ないそうだが、日本ではそうもいかない。小関はその板挟みにあい続けた。

 また、家具やプロダクトのデザインにこだわらず、例えば、洋菓子のパッケージやカタログ、見本市のビジュアルのブランディングなど、案件の内容は多岐にわたった。

 「プロダクトデザインの事務所で、グラフィックデザインや空間デザインの専門家もいない中、大学卒業したての自分に任されるのは当時は正直困りました(笑)。ただ、愚痴(ぐち)を言っていても仕方ないので、現場の人に教わりながら仕事をこなしていきました」

 そのときは理不尽なことばかりだったので、毎日のように苦心していた。けれども、それでもやり続けたのは、いつかは独り立ちしたいという目標があったから。どんなに苦労しても、ここでの経験やノウハウは、絶対に将来役に立つと信じていた。それは仕事の進め方もそうだし、コンピューターのアプリケーションの使い方を覚えるのもそう。何事も貪欲にやり続ければいいと信じて疑わなかった。

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