島原鉄道の事業再生支援が決定 地域再生の総力戦が始まる杉山淳一の「週刊鉄道経済」(1/4 ページ)

» 2017年11月17日 07時00分 公開
[杉山淳一ITmedia]

 地域経済活性化支援機構は11月13日、長崎県の島原鉄道に対する事業再生支援決定を発表した。同機構の地方鉄道再生支援は静岡県の大井川鐵道でも実績がある。今後、島原鉄道は同郷の長崎自動車をスポンサーとして迎え、地域交通、観光事業を担っていく。関わる人々が「島原半島には鉄道が必要」と判断した結果だ。

photo 島原鉄道の車両は南国の風景に映える黄色。「幸せの黄色い列車王国」としてまちづくり、集客に励む(2007年筆者撮影)

 島原半島は長崎県の南東部、有明海に突き出した胃袋の形をした地域だ。古くは江戸時代にキリシタンが蜂起した「島原の乱」の舞台として歴史に残る。近年の出来事として、1991年6月の普賢岳の噴火と火砕流被災を記憶する人も多いだろう。諫早湾干拓事業の堤防は漁業関係者に大きな影響を及ぼし、水門閉鎖はギロチンと呼ばれた。

 島原鉄道は、その島原半島の付け根にある諫早駅を起点とし、有明海側外周を経由して島原外港駅を結ぶ。路線距離は43.2キロで、半島の外周の約4分の1にあたる。2008年3月まではさらに約35キロ先の加津佐駅まで通じていた。この区間が廃止された理由は、1991年と92年の普賢岳噴火、火砕流被害による費用の増加と観光客の減少だ。

photo 島原鉄道は胃袋型の島原半島で鉄道路線を運行する。起点の諫早駅は九州新幹線西九州ルートの駅ができる(国土地理院地図を加工)

 もちろん沿線の人口減少、利用客減少も理由の1つ。しかし、島原市議の松坂まさお氏のブログによると、最大の理由は火砕流で流された鉄橋を架け替えた、新しい橋の固定資産税負担だったという。災害復旧は地域ぐるみで国や県の支援も得られたはずだが、皮肉なことに線路維持コストの増大によって経営改善が急務となった。これが累積債務の増加に拍車を掛け、約10年後に事業再生に至った。

 2008年3月の島原外港〜加津佐廃止については、現在なら、施設の保有と鉄道運営を切り離す「上下分離」で鉄道事業再生となる事例だと思う。鉄道事業法も改正されており、自治体が第3種(線路施設保有)、島原鉄道が第2種(列車運行営業)の事業を担うことは可能だった。しかし当時は地方鉄道を上下分離で支えようという見識は広まっていなかった。廃止は1年前に届け出が必要だから、廃止決定は07年3月だ。「地域公共交通の活性化及び再生に関する法律」の施行は07年10月。島原鉄道はこの法律の下で議論は行われなかった。同法に基づいた鉄道事業再構築実施計画は、09年2月、福井鉄道で初めて認定されている。

 一部廃止以降も島原鉄道の厳しい経営状況は変わらなかった。しかし、上下分離などの抜本的な枠組み変更は行われていない。これまで島原鉄道のバス事業に関しては自治体の補助があった。08年まで鉄道部門への行政からの支援はなく、一部区間廃止をきっかけに、鉄道安全輸送設備の整備費のうち、国が3分の1、自治体(長崎県・諫早市・雲仙市・島原市)が3分の1を負担する枠組みが始まった。のちに島原鉄道の負担分3分の1を自治体が負担、沿線3市が上限1000万円で赤字補填(ほてん)する形になった。主要取引銀行の融資も続き、いままで何とかやってきた。

photo 島原鉄道はかつて加津佐駅に達していた。当初、残存区間は車両基地のある南島原までという案だった。しかし船便の接続を考慮して、島原市の要請で島原外港まで残された。廃止ではなく上下分離化で鉄道を残せば、口之津で天草方面のフェリーへ連絡できたが……(2007年筆者撮影)
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