「生産性」に潜む“排除”の論理 新潮45事件の薄気味悪さ河合薫の「社会を蝕む“ジジイの壁”」(4/6 ページ)

» 2018年09月28日 07時00分 公開
[河合薫ITmedia]

「生産性」主張から思い出す“あの事件”

 ……ふ〜っ。批判はこれくらいにして本題に入ります。

 私が今回の一連の事件で絶望的な気持ちになったのは、杉田氏の「LGBT=生産性がない。常識や普通であることを見失っていく社会は崩壊する」という発言を聞き、とっさに「津久井やまゆり園事件」を思い出したからです。

 私はこの部分こそが「現代の生きづらさ、働きづらさ」の根幹になっていると確信しているのです。

 2016年7月26日午前2時38分、津久井やまゆり園で暮らす19人もの人たちの尊い命を奪った男は、「障害者は生きてる意味がない」と、障害の有無などによって人に優劣をつける優生思想を掲げました。逮捕されたあとも反省はなく、その後の調べで、事件の半年前に「彼らを生かすために莫大な費用がかかっています」と同級生にメッセージを送っていたことも分かりました。

 これって、杉田氏のロジックと全く同じだと思いませんか。

 「生きてる意味がない(無駄な命)」という犯人の言葉は、杉田議員の「生産性がない」と同義。どちらの主張も「生産性がないから税金を使う価値なし、排除せよ」とし、男の「障害者」という言葉が、杉田氏の「LGBT」に置き換わっただけです。

 そして、男の「常識」と杉田氏の「常識」を結び付けているのが、「生産性」という価値観です。私が生産性を考えるときに大切にしているのが「障害学(disability studies)」の知見です。

 障害学は1982年にアーヴィング・ケネス・ゾラたちによって米国で創始された学問で、その後英国でマイケル・オリバーを中心として大きく発展し、日本では2000年代に入ってから徐々に広められてきました。

 従来の医療モデルでは「身体に障害がある=障害者」としますが、障害学は「障害を生み出す社会」を論考する学問で、私の専門の健康社会学と同じ視点です。

 つまり、健康社会学では「個人と環境の関わり」にスポットを当て、健康(単に病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、全てが満たされた状態)について考えますが、障害学も同様の社会モデルに基づいているのです。

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