宇田川: この、モーセと神の“対話”の様子こそ、人が「認知限界」(※1)や「認知的不協和」(※2)を打ち破っていくためのプロセスなんです。モーセは嫌がりつつも、神とのやり取りの中で、今までの認知の枠の外側にあった問題と向き合います。
そして、モーセと神は対話の中で「その問題に立ち向かうためには、具体的に何が必要なのか」を導き出していく。それらを一つずつ準備して、モーセは最終的に恐怖を乗り越え、問題の解決に向かっていきました。
聖書の中の逸話なので、ここでは神の言葉として出てきますが、一般的なビジネスの文脈で考えるならば、モーセに臨んだ神の言葉は、自分の会社の大きな適応課題(変えようとすると痛みを伴う決まった答えのない問題、後編で詳述)、モーセは自分の会社の大きな課題に気付いてしまった人(潜在的なリーダーシップ)という構図で考えると良いと思います。
WORK MILL: モーセのように動き出す人がいなければ、ユダヤ人はずっとエジプトで奴隷生活を続けていたのかもしれませんね。
宇田川: そうですね。人は皆、枠組みの外に出るのは怖いんです。「このままじゃダメだ」とはわかっていながらも、いざそれを口に出してしまったら、現状の安定が崩れてしまうかもしれない。
だから皆、問題の本質を明らかにするための“対話”を避けてしまう。自分からは動き出すのが怖いから、モーセみたいな「こっちへ来い!」と言ってくれる先導者を待ち望んでいる……そういう人は、きっと現実にも少なくないでしょう。
WORK MILL: そのような状況にある企業は、少なくないように思えます。
宇田川: 一方で「誰についていくか」という選択も、結局は主体性が求められる行為です。哲学者のミシェル・フーコーは「従う人間が権力を内在化している」と主張しました。権力は、それを支持するフォロワーがいなければ成立しない――つまり、フォロワーこそが権力を生み出しているのだ、と。
WORK MILL: 「不満がありながらも何かに従う」ということは、その“何か”が影響力を持つのに加担してしまっている、とも言えるのですね。
宇田川: そう、従う人も共犯者なのです。ただ、フーコーは決してこの構造を悲観的に捉えていたわけではありません。彼は「私たち一人一人には、そういう力があるのだ」と強調しました。自分がモーセにならなくても、「何を信じて、誰についていくか」ということは、より良い未来を切り開くための大切な選択です。
※1 認知限界…一人の人間が認知できる範囲、処理できる情報の限界。
※2 認知的不協和…人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態のこと。または、その状態で抱える不快感。
※1、※2について詳しくは前編を参照
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