なぜ私たちは、人工知能を“誤解”し続けてしまうのか【最終回】真説・人工知能に関する12の誤解(17)(1/4 ページ)

人工知能に対するさまざまな誤解を取り上げてきた本連載ですが、ついに最終回となりました。今回は、なぜ私たちが人工知能を“誤解”してしまうのか、そもそもの理由を考えます。

» 2018年02月22日 08時00分 公開
[松本健太郎ITmedia]

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 8カ月にわたって続いたこの連載も、今回が最終回となります。これまで「働き方」「ビジネス」「政府の役割」「法律」「倫理」「教育」「社会」とさまざまな観点から、人工知能に関する“誤解”を検証してきました。

 中には「それはお前が誤解している!」とツッコミをもらうような部分もあったかもしれません。事実、SNSでもさまざまなフィードバックをいただきました。今回は、日本に暮らす私たちの多くが、人工知能を誤解してしまっている、そもそもの原因を考えたいと思います。

 この連載を振り返ると、人工知能に仕事を“奪われる”人工知能が“暴走する”人工知能に自我が“芽生える”――といったテーマが出てきましたが、これはまるで、人工知能が意思を持っているような言い方だと思いませんか? 本当は人工知能を開発した人間の“作為”であるはずなのに。

 私は、こうした誤解の多くは、人工知能そのものに「存在」を感じることに起因していると推察しています。日本では神道に代表されるように、巨大な岩、山、田んぼ、果てはトイレに至るまで、あらゆる物に存在を感じて、神格化し、崇拝する傾向にあります。

 例えば、山を登っている途中に、いきなり雷雨に巻き込まれるようなことがあると、「山が怒っている」と表現する人もいるはず。このように、山に感情を与え、人格化することを違和感なく受け入れる文化があるのです。しかし、これは世界的に見れば、珍しい考え方でしょう(特に一神教の人々からすれば意味不明かもしれません)。この宗教観や文化の違いが、人工知能を誤解させているのではないかと思うのです。

「art」と「nature」から考える、人工知能脅威論の背景

 国や民族間での宗教観の違いを表す言葉の1つに「自然」があります。

 私たちが、雄大な山々やさんさんと輝く川を見て口にする自然という言葉は、仏教用語である「自ら然る(おのずからしかる)」が由来といわれています。人間の作為が入っていない「ありのまま」の姿を意味しており、昔からずっとあるがままというイメージです。

photo 国や民族間での宗教観の違いを表す言葉の1つに「自然」があります(写真はイメージです)

 一方、英語では自然という言葉を、名詞では「nature」、形容詞では「natural(自然な、自然の)」と表現します。そして、その対義語は「art(芸術)」です。なぜ自然の反対が芸術なのか、と思われた方は、連載の第11回を一読いただければと思いますが、簡単に言うと、artとは芸術という枠を超えて、人が作ったもの、人が手を加えたものを意味しており、一方のnaturalは神が創ったものを意味しています。

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