コラム
» 2005年11月07日 10時00分 UPDATE

小寺信良:人は後世に何を残せるか (1/3)

著作物であるかどうかは、時として我々のイメージとズレていることがあり、そこに著作権法の限界を感じる。芸術性を認めながら人間の創造性を保護し、かつ多くの人の幸福に貢献するのは、もうこの法律では無理なのではないだろうか。

[小寺信良,ITmedia]

 「家名」を存続させるという概念は、世の東西を問わず、多くの国にあるようである。子孫一族を末長く反映させるということは、遺伝子情報の存続につながるわけだから、家名を守るというのは、ある意味本能的な作業であるのかも知れない。

 東京に長く暮らしていろいろな人と付きあいが出てくると、知っている人が突然田舎で家業を継ぐと言って会社の重職を辞めてしまい、驚くことがある。人生にとって何が重要なのかは人それぞれであり、何を以て幸せとするのかも、またそれぞれの価値観である。

 遺伝子的に子孫を残すだけでOKならば話は簡単なのだが、出生率が年々低下しているということは、それもなかなか難しくなってきているということだろう。さらに家名を継ぐとなると、跡取りは男でなければならないとか、いろいろ難しい。

 家が長く続けば、墓に刻まれた自分の名前も記録として残っていくだろう。だが、何をした人物であるかを人の記憶に残すのは、なかなか容易なことではない。「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す。保険に入っていれば金を残す」 と書いたのは、吉行淳之介だったか。だが保険金程度の金を残しても、功績と言えるかどうか。

名誉は食えぬという現実

 夏目漱石、芥川龍之介といった明治・大正時代の文豪の名前は、我々の記憶に残っている。その著作物を自分から読んだことがある人も多いと思うが、おそらくその名前を最初に知ったのは、教科書の中だったろう。文豪の残した功績というのは、こうして学校教育を通じて広く人の記憶の中に残っていくわけだが、文豪が財産をいくら残したかという話は、あまり伝わっていない。

 当時の文豪の作品は、そのほとんどが作者の死後50年が経過し、著作権が切れている。そのため、ネット上で無料でその作品に触れることができるようになったのは、ありがたいことだ。しかし今の子供達にとっては、これらの作品はもう古典の域に入ってきており、国語の教科書にはもうちょっと新しい作家の作品が採用されている。

 自分の作品が教育の場で使われることは、非常に名誉なことであろう。著作権法の第33条では、公表された著作物は、著作者に断わりなく教科書に掲載することができる。その代わり著作者には掲載する旨を通知して、補償金を支払うことを義務づけている。

 だが試験問題集となると、話は別のようだ。著作権法では、第36条に「試験問題としての複製等」という項目を設けて、入学試験や学識技能試験にも教科書同様の扱いとしているが、例えば入試対策の問題集や、学習塾で使用するテストなどの教材は営利目的であり、この限りではない。これらの場合には作品が無断で使用され、著作者には使用料なども払われていなかったというのが現実のようだ。

 これに関しては、1999年に詩人・谷川俊太郎氏ら9人が著作権侵害だとして、教材出版社に損害賠償請求を東京地裁に起こしている。この資料によれば、2003年3月に東京地裁が原告の訴えを認め、教材出版社6社に対して1億1532万円の損害賠償を支払うよう命じており、2004年6月の東京高裁でもほぼ同じ判決であったようだ。

 学習教材は教科書や入試問題に準拠して作るわけだから、当然それらから文章が転載されることになる。今年9月25日の朝日新聞の記事によれば、教材出版社で作る社団法人・日本図書教材協会は教科書出版社の団体に使用料を支払ってきたが、そこから著作者にお金が流れるような構造にはなってなかったようだ。

 その一方で教材出版社側が著作権法で認められた引用の範囲内であると勘違いしていたケースもあり、それじゃあナニか、引用だと思っていたにも関わらず教科書出版社に払ってきた使用料はワイロか? という話にもなりかねない。こういった学習教材に関して、著作権法がまったくノータッチであるのはまあ法律の不備という見方もできるのだが、そう何でもかんでも著作権法のせいにして、新しい条文を組み込んでいくのも、あまり頭のいい方法とは思えない。

次ページ「著作権法の限界」

       1|2|3 次のページへ

Copyright© 2016 ITmedia, Inc. All Rights Reserved.