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ムービーがテレビを捨てる日小寺信良(2/3 ページ)

» 2007年03月19日 09時00分 公開
[小寺信良,ITmedia]
photo キヤノンのPoertShot TX1」

 最近ではキヤノンがPowerShot TX1というモデルで、1280×720のハイビジョンサイズで30Pというコマ数撮影を実現した。ハイビジョン規格としての720Pは60Pなので、これもテレビ的な観点からはイレギュラーである。

 これらのデジカメの動画機能は、テレビ屋から見れば「わかってない」ということになるかもしれない。だが筆者は逆に、「わかる必要はない」という気持ちもある。デジカメ動画は、もはやテレビに対しての互換性を捨てるべき時期に来たとさえ思っている。

 今プロの映像の世界は、大きく2つに分断されようとしている。1つは放送のように、いかに現場と同じ絵を生々しく見せるかという方向性だ。

 目の前にある現実を、いかに人間の目で見たのと同じように記録・再生するかというのは、非常に難しい命題である。フレーム数、解像度、ガンマカーブ、色域など関係する要素は多いが、デジタルハイビジョン技術の登場で、ようやく現実となりつつある。これは報道的な用途で、大きな意味がある。

 さて、ここでデジカメが今日のように普及した理由に立ち戻ってみると、それは目の前にある現実がどのように切り取られたかが、その場で確認できたことにある。デジカメで撮影したのに、フィルムと同じように家に帰るまで絶対に見ない、という意地っ張りな人はまれであろう。

 目の前のものが「撮ること」によってどのように変化したか。自分の「こう撮りたい」という意志がどのように投影されたか、それが今すぐにわかるから、デジカメは面白いのである。何気ない現実がドラマチックに写ること。それは写実とはかけ離れて、黒が潰れたり白が飛んだりしているかもしれないが、何か象徴的であったり感動的であったりする、ということを求めている。

 これを動画でできないか。これが映像のプロの世界で起こっている、もう1つのムーブメントである。みんな映画のような個性ある映像を作りたいのだ。このアプローチは、ハイエンドのビデオカメラでも行なわれているが、もっとも簡単に実現できるのが、デジカメのムービー機能であるはずだ。「テレビに映す」ということをあきらめれば、ガンマや色温度、色域をむりやりNTSCに押し込める必要はない。もっと高い領域での映像美が表現できるはずだ。

1カットムービーの台頭

 デジカメムービーの可能性において、そのポータビリティを無視するわけにはいかない。ビデオカメラを毎日カバンに入れている人はあまりいないと思われるが、デジカメはいつも入っているという人は多いだろう。ましてやケータイの撮影機能まで含めれば、今街を歩いている人で何らかの撮影器具を持ち歩いていない人など存在しないのではないか、という錯覚まで覚える。

 YouTubeがテレビを超えるという論調が成立する根本は、ここにあると考える。だが、「テレビ局 vs 一般人」という考え方に飛びつくには、若干短絡しすぎるだろう。

 なぜならば、テレビが面白いものを作ろうという意志を持って計画的に制作しているのに対し、プライベートムービーの面白さは、その偶然性によることが多いからである。

 つまりプライベートムービーは、本人が面白かろうと思って意図的に制作したのではなく、たまたま面白い場所に居合わせていたから、あるいは違うものを撮影しているときに面白いことが起こったから、という要素が非常に大きい。これは番組制作でよく言われる「子供と動物にはかなわない」という論理とよく似ている。

 テレビ局のコンテンツに対抗できるという理屈の根底は、何かのハプニングチャンスに対して無限数存在するアマチュアのほうが、圧倒的確率でもって居合わせるということにある。つまり「テレビ局 vs 無限に近いアマチュア」という図式が成り立つ場合にのみ、成立する。

 だから、無限に近いアマチュアを集客できるYouTubeのような存在こそがテレビ局に対して対抗できるのであって、一人一人の個人がテレビ局より面白いわけではないことに留意しなければならない。

 そして今後問われていくのは、そこに写った面白い事柄の見せ方である。今後このようなムービー投稿サイトが隆盛となるならば、著作権的にクリアな完全なるプライベートムービーは、その大半が1カットとなることが予想される。一般の人が編集してまでコンテンツを作るというのは、今はパソコンを使えばそれほど難しくはないが、それをやるモチベーションが維持できない。

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