インタビュー
» 2015年03月09日 14時45分 UPDATE

不定期連載、潮晴男の「音の匠」:MC型カートリッジ作りに人生をかけた男 (1/3)

デジタルオーディオ時代になって、フォノカートリッジの存在感は薄らいでしまったが、それでも熱心なオーディオファンの期待に応える製品は多い。神田榮治さんが手がける「ミューテック」ブランドのMC型カートリッジもその1つ。ミクロの世界を自在に操る男の半生を追った。

[潮晴男,ITmedia]

 ハイレゾの音源の普及につれて、不思議なことにその一方で何かとアナログオーディオが話題に上がる。中でも代表格であるLPレコードは枯れたメディアといえなくもないが、比類なき安定感に多くのオーディオファンが信頼を寄せる。デジタルオーディオはオーディオ再生におけるクオリティーの底上げを行ったが、趣味の世界の魅力の掘り下げ方も平均化してしまった。おそらく今アナログオーディオに熱心に取り組んでいる読者は、オーディオの可能性をもっと追求したいという探究心の強い人なのだと思う。

ts_takumi11.jpg オーディオの匠、神田榮治さん

 LPレコードのプレスが前年を上回るという現象も、単に物珍しさだけが手伝ってのことではないだろう。バック・トゥ・ザ・ベーシック……オーディオの原点をもう一度楽しんでみたい、そんなユーザーの強い希望がもたらした変化である。

 しかしながらアナログオーディオと取り組むには気力と体力が必要だ。それはLPレコードからまともな音を出そうとすると、CDやハイレゾとは比べ物にならない投資とノウハウが必要になるからである。カートリッジもその1つだ。ダイヤモンドのスタイラスをマウントしたカンチレバーだけで、原価が1本数万円もする昨今にあって、カートリッジ作りはノウハウだけでなく資金調達も大変なのである。オーディオ全盛期の1960年代から1970年代にかけては3万円も出せば、かなり上級のカートリッジが買えたことを思うと隔世の感がある。

 話がいささか逸れてしまったが、それではハイエンドのカートリッジを作り続けて50年の達人、マエストロ神田榮治さんのプロフィールを紹介しておこう。お生まれは1930年、御年とって84歳。普通の人ならとっくの昔にご隠居さんだが、匠は違う。未だふつふつとアイデアが燃えたぎり、製作意欲が湧き上がる別格のスペシャリストなのである。

 神田さんは東京工業大学の電気工学部を卒業した理系の人だが、弱電とのかかわりは薄く、当初は無線関係の仕事に従事していたという。その後、松尾電業社に入社しトランスの設計に携わった。長年オーディオに勤しんできた人ならこの会社がどんな会社なのかお分かりのことと思うが、知らない読者のために記しておくと、松尾電業社はマリック・ブランドでハイグレードな電源トランスや出力トランスを作っていた。オンライフ・リサーチというオーディオメーカーが出力管に名球「300B」を使ったアンプを製作していたが、その真空管の隣にマリックのトランスが誇らしげに鎮座していたことを思い出す。

ts_takumi09.jpg 神田さんに物づくりの詳細を伺う潮晴男氏

 神田さんはここでトランスにとって大切な要素となる磁性材を研究するとともに、高性能な製品の開発を行ってきた。そしてこの経験がMC型カートリッジ用の昇圧トランスとMC型カートリッジの製作依頼を呼び寄せる引き金となる。

 時に、神田さん32歳の出来事だ。そしてこれを契機に彼は独立を果たす。以来作り続けてきた昇圧トランスとMC型のカートリッジは数知れず。超がつくほど有名ブランドの製品にも神田さんの手になるものが多い。にもかかわらず彼の名前が表に出ることは一切なかった。神田さんは50年近くを黒子に徹してきたのである。

 しかしながら、その彼にも転機が訪れる。東京から新潟に拠点を移して暫くしてのことだ。転居の理由は聞かなかったが、おそらく晩年を生まれ故郷で過ごしたいという欲求が起こったとしても不思議ではない。この辺りは一人で物づくりをおこなってきた身軽さも手伝ってのことだと思う。

 かくして神田工房は今から14年前に新潟市江南区で再スタートを切った。都会の喧騒(けんそう)を離れ一段と開発にも熱が入る。設計から製造までクラフトマンシップにあふれる物づくりに一層の磨きがかかったことは言うまでもない。

 しかしながら齢を重ねるうち、神田さんの心に自身のブランドを立ち上げたいという思いが芽生えた。最後にMC型カートリッジの集大成となる傑作を残したい……こうして世界にただ1つの方式で比類なきサウンドを奏でる「ミューテック」ブランドのMC型カートリッジが2012年に誕生した。

ts_takumi15.jpg 「ミューテック」のブランドロゴ

 アナログオーディオに詳しい人でも「ミューテック」の名前にそれほど馴染みがないのはそのためだ。しかしながらここまでお読みいただければ、このブランドがブームにあやかって生まれたものでないことも十分ご理解いただけることだろう。神田さんが考えに考えて生み出した磁気回路と、50年前には存在しなかった最強の磁力を持つネオジムNo.50という磁性材料との巡り合いがあって初めて形になったブランドなのである。

画期的な磁気回路を採用した1号機「LM-H」

 MC型カートリッジ一筋できた神田さんに、それ以外の方式のカートリッジは似合わないが、ミューテックの1号機となった「LM-H」は、そのMC型にあって、これまでにない画期的な磁気回路が用いられている。今あるMC型のカートリッジは多かれ少なかれ発電コイルの前後に鉄のヨークを介し、そこに永久磁石を組み込んだオルトホン型の磁気回路を範としている。しかしながらこの方式だと発電効率が思うように上がらないし、磁気歪の低減にも限界がある。そこで神田さんは図のようにヨークを廃し、リング状のネオジムで磁気回路を作り、この中に発電コイルを埋め込んだのである。

ts_takumi12.jpgts_rmkanda01.jpg ミューテックの1号機となった「LM-H」。標準価格は税別27万円(左)。ヨークを廃し、リング状のネオジムで磁気回路を作り、この中に発電コイルを埋め込むという画期的な磁気回路が用いられた(右)

 アルニコやサマリウムコバルト磁石より磁力の強いネオジムを採用することで、磁気回路がコンパクトにまとめられていることもLM-Hの特徴だが、それだけでこれほどまでに変換効率に優れた磁気回路ができるわけではない。もう1つの大きな支えが独自に開発したコア材……「SSμM」と呼ぶ特殊合金の存在である。一般的にはコア材に純鉄を用いる。純鉄は透磁率こそ高いが周波数が高くなると歪(ひずみ)も増える。これではせっかくの特性が活かせないため、神田さんはこの磁気回路にもっともふさわしい新たなコア材を完成させたのである。

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