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ポリフォニーを再解釈する現代ハイレゾ技術――「Auro-3D」でバッハは現代に蘇る!?麻倉怜士の「デジタル閻魔帳」(1/3 ページ)

» 2015年07月31日 16時18分 公開
[天野透ITmedia]

 サラウンドといえば「Dolby Digital」や「DTS」といった映画由来の技術が連想される。近年では「Dolby Atmos」「DTS:X」というオブジェクト型音響技術も話題になっているが、一方で「Auro-3D」(オーロ3D)という第3の方式が音楽表現の新境地を拓くと、AV評論家の麻倉怜士氏は指摘する。斬新なサラウンド表現で有名なレーベル「UNAMAS」(ウナマス)の新録音源を基に、麻倉氏は「音楽表現としてのサラウンド技術」という可能性を見つめていた。

麻倉氏:前回はハイレゾ録音と音楽表現の関係性を考えましたが、今回はもう1つの現代的録音技術であるサラウンド録音を考えてみたいと思います。バッハの「アート・オブ・フーガ(フーガの技法) BWV1080」という非常に難易度の高い曲を、UNAMASのミック澤口氏プロデュース、入交英雄さんのディレクションで収録するという現場に立ち会いました。演奏はUNAMAS FUGUE QUINTET(ウナマス・フーガ・クインテット)という、東京交響楽団の選抜メンバーです。

UNAMASレーベルの新作「アート・オブ・フーガ」。サラウンドとハイレゾという2つの録音技術で、バッハの難曲に挑む意欲作だ

――楽曲もレーベルも、一般ではあまり耳にしませんね。詳しく教えてもらえますでしょうか

麻倉氏:UNAMASはそもそも、三鷹のジャズ喫茶「UNAMAS」のライブ演奏をハイレゾで録ってSACDやハイレゾ配信で世に送るというジャズレーベルです。クラシック音楽の企画は、去年のe-onkyoクラシック・ベスト1に輝いた、同レーベルの「ヴィヴァルディ『四季』」が原点となりました。今回のバッハで第二ヴァイオリンを務める竹田詩織さんを実質的なリーダーとして弦楽四重奏を組んでおり、この時にソロヴァイオリンをオーバーダブルスにするという、クラシック界では目眩(めまい)がするような、ユニークな試みをしています。春夏秋冬をそれぞれヴィオラ/チェロで一人ずつソロを録って多重録音するという、通常のクラシックではありえない大冒険でした。

――ヴィヴァルディの「四季」は様々な録音が五万とある定番曲ですが、バロックのアンサンブルで多重録音というのは、ちょっと聞いたことがない試みですね

麻倉氏:単なるおもしろ企画というだけではなく、新録音源である上に音も良いということで、この「四季」は大ヒットしました。この成功を受けて、挑戦の第2弾に選ばれた楽曲がバッハ最難関である「フーガの技法」です。そもそも今までジャズを専門に扱ってきたレーベルのプロデューサーが考えるクラシックというのは、クラシックプロパーの作品作りからは絶対的に発想できないような型破りなものです。大前提として、あまりに難解な「フーガの技法」をやろうとは考えないでしょう。

 この曲にはチェンバロ版や弦楽四重奏版などさまざまあって、バッハとしても自由な編曲を妨げないという感じがあります。今回はオーソドックスな四重奏にコントラバスを加えた弦楽五重奏のスタイルが選択されました。アレンジは「四季」でも斬新な編曲を手がけた土屋洋一氏です。

楽屋を使ったミキシングスペースで演奏を見守るミック澤口氏(左)、入交秀雄氏(中央)、土屋洋一氏(右)、その後方には麻倉怜士氏

――難曲であるためにあまり録音例がないということですが、難曲と呼ばれるものは他にも多数ありますよね。『パガニーニの主題による超絶技巧練習曲』(通称「パガ超」)などは「初版があまりに難しくリスト本人以外は演奏できなかったために、よく知られている簡易版の『大練習曲』(通称「パガ大」)に書き換えられた」などという話も聞いたことがあります。「フーガの技法」が難しいというのはどういった理由なんでしょうか

麻倉氏:バッハの精神性というものもあるのですが、とにかく音楽が難解なんです。楽曲というのは譜面通りにやるのですら難しく、この曲はそもそも譜面通りにいかないですね。それだけではなく、解釈の手がかりが譜面に書いていないので、そういった部分まで分析する必要があるんです。

 どういうことかというと、ある部分は「鏡に移して長さを倍にして、それを逆再生演奏しましょう」という、複雑極まりない構造となっています。しかもこの曲はフーガなので「二声三声とこの複雑なメロディを繰り返す」となります。

――少なくとも初見では絶対に分析しきれないですね……「演奏してくれ」とその譜面を渡されたら、間違いなく発狂します

麻倉氏:バッハは「フーガの技法」以外にも謎かけ趣味の様な一面がありますね。こういったテクニックに走りすぎた感が「だれも演奏できない」ということで、バッハが衰退する要因になりました。1750年にバッハが亡くなってから50年ほどは、話題にも登らなくなっていました。

――バッハが再評価されるのは、ロマン派の名手であるメンデルスゾーンがバッハの曲を発掘してからですよね

麻倉氏:一時代を築いた思想は次の時代で否定される、音楽史にはこういう振り子作用的なところがあります。バロック様式だと「感情豊か」だとか「あらゆる音型にそれぞれの感情を当てはめる」とか「フーガやポリフォニーの技法を多用する」とかいった特徴が見られます。

 ところが次の古典派時代では、こういったものを全て捨てて音楽がとてもシンプルになり、機能和声を使って単一旋律の音楽を進める「ホモフォニー」が主流となります。感情を排して様式美と音の純粋さを追求するのが、古典派が目指した音楽なのです。それに対して「人間の感情の発露こそが音楽である」と、形式追求よりも感情を爆発させたのが、次の時代であるロマン派でした。そういったこともあり、技巧に走りすぎたバッハは、古典派時代になると「飽きられ」「呆れられ」てしまいました。その最高傑作が「フーガの技法」なのです。

――なるほど。これはバッハのみならず、バロック音楽全体を見ても「技巧の極致」とも言うべき曲に果敢にも挑戦した、という訳ですね

麻倉氏:普通のクラシックの人なら「これだけは避けよう」という曲ですが、それを大胆にも弦楽五重奏にアレンジしたのが今回の編曲です。なぜ弦楽五重奏にしたのか澤口さんにたずねたところ「それは君、低音ですよ。低音が無い音楽なんてありえない!」という答えが返ってきました。「低音をしっかり出そう」というのが、澤口さんの仕掛けたプロデュースという訳です。

――至極明快ですね。聴き手としてもどこに耳を傾けるべきかの指針となりそうです


ステージ上にセットされた録音機材を確認する入交氏

麻倉氏:今回は3月の4日と5日に、ホールトーンが素晴らしいことで有名な大賀ホールで録音しました。因みに昨年の「四季」も大賀ホールです。

 前置きが長くなりましたが、今回の“ミック録音”を4つの特徴で解説しましょう。1つ目はこの話のテーマでもある「サラウンド」です。ハイレゾは基本的に、CDの延長線上にある2chステレオで展開されていますよね。対して澤口さんのハイレゾは5.0chのサラウンドなのです。

――確かに多くのハイレゾ音源は2chステレオですが、マルチch音源も無いわけではないですよね。SACDやDVDオーディオの時代では、音楽ソフトにもサラウンドが取り入れられていたと思いますが

麻倉氏:澤口さんという方は、NHKにおける録音の重鎮でした。その後パイオニアに移ったという経歴の中で「サラウンド塾」なども開いており、録音や制作の専門家を集めてサラウンド講座をずっとしていた、世界的なサラウンドのレジェンドです。今、各放送局やレコード会社、プロダクションには、澤口さんの弟子が沢山います。業界では「2大サラウンド神」の1人と呼ばれていたりもするんですよ。因みにもう1人はノルウェーの2Lで特徴的な空気感を生かした臨場感の豊かなサラウンドを創り出す、 モートン・リンドベルグ氏です。

――黎明期からサラウンドの発展に尽力された偉人、というわけですね

麻倉氏:サラウンドには2種類あります。1つはホール型サラウンド、もう1つは演奏者型サラウンドです。

 ホール型はスタンダードなタイプで、前で演奏される音楽を客席から聴き、サイドやリアからホールの豊かな響きを鳴らすというものです。

――3.1+2chという感じですね。このタイプは多数の音源があるので、比較的手軽に入手できますよね

麻倉氏:対して澤口サラウンドは演奏者型。これが2つ目のポイントです。

各chに明確に奏者を当てはめ、円形に広がったバンドの中心で聴きます。ホール型はフロントが演奏でメイン、リアはアンビエントでサブなため、極論を言うと2chのファントム音場でもそれなりに再現できます。対して全方位から演奏音が流れる奏者型は、全chが主役となるので、トラディショナルな2chでは逆立ちをしても再現できない境地になるのです。

――映像ソフトの場合でも、ホール型サラウンドは2chにミックスダウンするなりステレオ設定で再生するなりで楽しめますが、演奏者型でこれをしてしまうと全くの別物になってしまいますね。ステージ上、プレイヤーの位置で音を聴くということに意味があるわけですから

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