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» 2012年08月10日 18時40分 UPDATE

夏休み集中連載:「メガネ男子」その2・心にメガネがあれば

「メガネ」と「メガネ萌え」には誤解がつきまとう。世にはびこる“なんちゃってメガネ”に僕らは「違うよ、全然違うよ!」とため息をつく。「眼鏡を掛けただけでメガネ男子になれるわけではない」のです。あさみさんによるメガネ男子論ののその2。

[あさみ,ITmedia]

連載「メガネ男子」

その1・メガネという枠

あさみ

某業界の片隅でひっそりと書いている、いろいろと匙を投げた女子。メガネ男子研究をライフワークとする。5月の文学フリマにて同人サークル・久谷女子の有志と合同で同人誌「不機嫌メガネ男子論」を発表(コミックマーケット82・3日目、東T15a「久谷女子」スペースにて委託販売予定)。Twitter:@adonis_fish


 メガネが、足りない。

 このところ寝ても覚めてもメガネ男子のことばかり考えていたら、なんだか基礎メガネ男子代謝とでもいおうか、健康で文化的かつハリのある生活を送る上で必要とするメガネ男子成分が質・量ともに急上昇してしまい、とはいえ周りを見回しても常時鑑賞に堪える“上物”のメガネ男子なんてそうそういませんので終いには夜な夜な メガネダンシ…┌(┌ ^o^)┐メガネダンシ… と徘徊しはじめる勢いの僕です。またお会いできて光栄です。この前と若干雰囲気が違うのは取り乱しているからです。

 さて、メガネ男子とは外見と内面が密接に結び付いた2次元創作物において、作り手・読み手の「なるほど眼鏡を掛けた男とはこんな人物でありそうだ」という一致了解のもとに出来上がった“キャラクター”のテンプレートである。眼鏡を掛けていること以外は外見も年齢も性格もさまざまな彼らは、しかし共通して「眼鏡に象徴されるところの知性が行きすぎたための、真っ当に生きることへの困難」を根っこに抱え、眼鏡の内にもうひとつの世界を持っている、ということは前回お話しした通りである。

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 こうしたキャラクターとしての「メガネ男子」像が明確になるにつれ、3次元、すなわち実在の男性にもこのテンプレートを敷衍する動きが生まれてくる。これは何もメガネ男子に限ったことではなく、外見上の特徴を持つキャラクターではよくあることだ。例えば「明るく活発な女の子」というキャラ設定を持つポニーテールを結った見知らぬ女の子を街で見かけたら、その子が本当はどんな性格かはわからなくても「元気そうな子だな」と感じるだろうし、黒髪のロングストレートをなびかせる女の子がいたらミステリアスな印象を抱くはずだ。そして実際もそうであることが多い。装う側が「似合う」という感覚を通じて、(多くはあまり意識せずに)それらのキャラクターを取り込んでいるからだ。

 そしてそのキャラクターは、「デニムのショーパンにポニテで元気な感じにしよう」などと、こちらはけっこう意識的に、統一されている。元気そうなポニーテールの子は、全身元気そうに装っている。デニムのショートパンツに少しだけフリルをあしらったキャミソールを合わせ、ウェッジソールのジュートサンダルを履いて、耳には大ぶりのアクセサリーが光っている。友達と連れだって、時おり笑い声をたてながら楽しげに街を歩いていく。そうした現実の女の子たちの存在が、キャラクターをさらに強化する。

 女子のヘアスタイルなどの場合はこのような相互参照が比較的容易に成立するのだが、ではメガネ男子でも同じことができるかというと、そうはいかない。忘れてはならない、眼鏡はあくまで視力矯正器具であり、キャラクターとは無関係に、必要が生じて身につけるひとのほうが多いのだ。現実の世界では、「眼鏡をかけていそうな内面」の持ち主でなくたって、目が悪ければ眼鏡を掛けていることもある。反対に、これぞという深奥なる内面世界を持つ男子がいたとしても、両眼とも視力1.5であればまず裸眼だ。これは困る。インディゴのスリムジーンズにブランドもののポロシャツの襟を立て、靴の先がなぜか尖った、見るからに悩みない(単純にチャラいのとはちょっと違う)感じの男子が、ごつい黒のセルフレームなんか掛けて、屈託なく話し掛けてくる。これは違う。何かが違う。外見と内面とが混然一体となった“キャラクター”の概念が、破綻してしまう。眼鏡という外見上の特徴を取るか、内面を取るか。

「外からは見えないけど、この人の本質はメガネを掛けている」

 この乖離をどうにかすべく導入されたのが「心にメガネを掛けている」という表現だ。要は内面を取ったということになる。外見と内面、比べてみれば内面のほうがより本質に近いというのが一般的な印象だし、萌え対象になっているのも主としてそちらであることを考えれば、これは当然の帰結である。しかしその「メガネ男子的気質」自体がもともと眼鏡というアイテムからの連想に端を発しているため、完全に分離することはできない。「外からは見えないけど、この人の本質はメガネを掛けている」という脳内補完の結果として「心にメガネがある」という感覚が生まれたのだろう。

 この一連の選択行為によって、メガネ男子の本質はメガネ男子的なその心性にこそある、と再定義される。眼鏡それ自体は不要とまではされず(なんといってもそれは根本なのだから)、2次元においては眼鏡を伴ったキャラクターとされるのが普通だが、それまで眼鏡をかけていないために「メガネ男子」と見なされていなかった2次元のキャラクターが「実は心にメガネがある」と再認識されたりもしている。一方、眼鏡を掛けているにもかかわらず「メガネ男子的」でない者たちは、彼らの多くがセルフレームなどファッション性の高い眼鏡を掛けていることから「シャレオツ」「オシャレメガネ」と蔑まれ、メガネ男子萌えを自認する界隈からは迫害にも近い扱いを受けることになっている。

 巷ではメガネ男子ブームなどといいつつ、ビジュアルばかりを取り上げて「萌える!」「モテる!」と持て囃すような言説が溢れておりますが、ここまでお付き合いいただいた皆さまにはご案内のように、眼鏡を掛けただけでメガネ男子になれるわけではありません。そう、眼鏡を掛けただけではメガネ男子になれないのです(大事なことなので2回言いました)。メガネ男子になるためのメガネは直接目で見ることができないし、容易に掛けたり外したりできるようなものでもない。モテようとして伊達眼鏡なんか掛けて「メガネ掛けてみたんだけど、どう?」とか言おうものなら、大顰蹙を買うのは必至だろう。

 だとすると、現物の眼鏡っていったいなんなんだろう?ただの飾りなのだろうか?

 結論からいうと、やはりそうではない、眼鏡は確かにメガネ男子という存在、キャラクターに対して一定の貢献をしている、というのが僕の見解だったりするのだけれど、どうやらお時間が来たようなのでこれでお開き。またいつかお会いしましょう。

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