「わがまま」って言葉にはネガティブなイメージがあります。
わがまま、が場の雰囲気や志向と反することをいうイメージなんでしょうか。そうではなくて「自分が思うまま」にアイデアを出してゆくことなんです。それが結果として周囲から浮くこともあるでしょうけれども。だからイコール自由な発想、なのです。
出てきた自由な発想を単純に現実的に当てはめるのではなく、よいところを残しながら着地点を見つけていく双方の歩み寄りが「思いやり」。体験を積むうちに思いやりはできるようになります。むしろ思いやりが過ぎてわがままになり切れないリスクが今度は出てきます。そのバランスをキープするためにもわがままになるだけの時間帯=アイデアだけを考える時間を物理的に分離しよう、といっているわけです。
せっかく斬新でユニークなアイデアが生まれても、企画にしていく(「思いやり」に落としていく)段階でつまらなくなってしまうことがあります。☆形にトンガったよい形のアイデアが、〇形に体裁を整えていくうちにどこかで見たような形に……みたいになってしまうのはなぜでしょう?
☆が〇になるのは宿命です。アイデア時点でのトンガリをそのまま世に出せるケースはまれ。ターゲットが広いほどそうなりますね、当然。ただゴシゴシ丸めてしまっては元も子もないので、できる限りトンガリを残しながら、あるいは当初のトンガリを含んだ全体的な形をキープさせながら企画として整えていく。どちらかというとディレクター、あるいはプロデューサーの仕事領域になります。
既存の要素、といっても世の中の共通項の情報からだけでは「わがまま」になりきれない、トンガったアイデアに発展しないような気がしますがどうでしょう?
センセーショナルなニュースは別ですが、「日本人全員が読んだことのある本」ってないわけです。夏目漱石先生の『こころ』読んだことのない人、たくさんいるんじゃないですか? 直接体験、間接体験の蓄積というスケールで人間を見たら、そりゃーもうバラバラもいいところです。いくらでもトンガれます。大丈夫です。
アイデアパーソンは第三者的な立場であるべきとのことですが、「わがまま」であることと両立しないような違和感を感じますがいかがでしょうか?
わがままになると、「現時点での常識外れ」になる場合があります。いわゆる当事者的には「それ無理!」といいたくなるアイデアが出てきます。それこそが第三者視点から出たアイデア(選択肢)。お題に対して理解・共感はしながらも距離を取ることがアイデアパーソンには必要だと思います。第三者とは評論家ではありませんのでご注意を。第三者、という言葉には冷たい響きがあるのかな?
「思いやり」って具体的になんですか?
ここは初心に立ち返って、『川崎和男 ドリームデザイナー』から引いてみましょう。
「まず自分が『これがほしい』っていうものを作っちゃう。ここにある製品もみんなそうなんだけれども、まず自分がほしいなというものを作る。それから、これを友だちはどう思うだろうかと考える。例えばお父さんのためとか、お母さんのためとか、兄弟のためとか、そういうことを考えていって、それから今度は、車椅子を必要としている人たちのためにはどうしたらいいんだろうと考えながらデザインを変えていきます。そういうのが工業デザインなんだよ」
……どうでしょう?
アイデアパーソンと企画者は別であるべきなんでしょうか?
ほとんどの場合、アイデアパーソンはまた同時に企画者であるでしょう。現実的な職業、組織内の機能としてもそうですよね。大切なのは、選択肢としてのアイデアだけを考える時間とそれを選ぶ時間、さらに選ばれたコアアイデアを具体的な企画に詰めていく時間を物理的に峻別することです。同時並行はやめたほうがいいです。ロクなことになりません。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.