取り込み詐欺の業者は捕まったが、浩のチームの不協和音は収まらない。一時は15人もいた営業マンが1カ月で7人も辞めてしまった。意気消沈した浩を待ち受けるものは――。
ビジネス小説「奇跡の無名人」シリーズ第3弾「感動のイルカ」は、アクティブトランスポートの代表取締役兼CEOである猪股浩行さんの実話に基づく物語である。
主人公の猪狩浩(いかり・ひろし)は、15人の部下を持つほど営業マンとして成功を収めた。だが、不況になるにつれ部下の管理も行き届かなくなり、部内には不協和音が響くように。そんな中、浩本人が取り込み詐欺に遭ってしまった――。
取り込み詐欺をやった業者は捕まったが、債権者が山のようにいて、回収は不可能だった。浩の処分は半年間の減棒となった。それでも手取りで約50万円の月収が残った。
減俸よりもショックだったのが、これを潮時と部下の去るペースが以前よりも早くなったことだった。詐欺事件があってから1カ月で7名が退職した。
事態を重く見た会社は、浩の部下を全員別のチームに移した。浩は部下なしの管理職となってしまった。
まあ、一匹狼に戻っただけだ。部下がいない方が稼げる。浩はそう思うことにしたが、孤独感は癒えなかった。顧客は基本的に部下に担当させていたので、浩の手元に残ったのは数件の会社だけだった。それとて不景気で、新しい受注は困難だった。次々と新規開拓をしていった頃のバイタリティは残っていなかった。浩の営業成績は、さすがに最下位ということはなかったが、グラフの右側――つまり下位で低迷していた。
一時期ピタッと遊びをやめていた浩だったが、一人で飲みにいくようになった。車を売り飛ばした金があったので、まだ多少の預金残高はあった。それもいつまで保つか……。
今日も酔いの回った浩は、清美のマンションに向かっていた。季節は初冬になっていた。風が冷たかった。自然と早足になる。
チャイムを鳴らすとドアが開いた。その向こうに浩の求めている笑顔はなかった。
「また、飲んでたの?」
「見れば分かるだろ」
「とにかく入って」
「ああ」
浩は、上着を脱いで、床に放り投げた。吊すのもおっくうだった。清美は熱いお茶を持って部屋に入ってきた。
「お茶なんかいい。ウイスキーとかないのか」
「もう十分飲んでるじゃない。とにかく少し醒ましなさい」
浩は争わないことにした。清美の様子が普通でないと気づいたからだ。
「もう、昔のような気力はないの?」
「説教か?」
「聞いてるだけ」
「オレは何も変わってない。昔から弱い人間なんだよ」
「答えになってない」
「なあ。どうやったら気力なんかわいてくるんだよ? 前は運が良かっただけだ。それがようやく分かったんだ」
「そんなことないよ。運だけで営業なんかできないもの」
浩は一瞬三善啓太の顔を思い出した。しかし、頭が混乱して、何を教えてもらったか思い出せなかった。
「人間ダメなときはダメなんだ。最初に仕事が取れたのも運だけだったし、その後も運だけだった。もう運を使い果たしたんだよ、オレは」。涙が出てきた。
「自分がどれだけ努力してきたか、すっかり忘れちゃったんだね」
「努力なんかしてないよ」
「してた、誰よりも。だから、すぐにリーダーになれた。私は何人も見てきたから、あなたの努力のすごさは良く分かるの」
「今だって、がんばってるよ。だけど、まるで運が向かないんだ」
「お酒飲んでるだけが努力なの?」
「やっぱり説教かよ」。怒りで声が震えた。でも、自分に腹を立てる資格はない。
30秒ほどの沈黙があった。浩には5分ぐらいに感じられた。
「しばらく逢わないことにしようよ」
「え? なんで?」
「このままだとお互いダメになると思う」
「嫌いに……なったのか?」
「ううん、逆。大好きでいたいの」
酔った頭にはまったく意味が分からなかった。
「今の2人は、支えあってるんじゃなくて、甘えあってるだけだと思う。2人とももうちょっと大人にならないと……」
「よく分からない。とにかく今は別れようということなんだね」
「別れるというのとは違うけど、そう思うのならそれでもいい。でも、私はしばらく待ってるわ」
腹は立たなかった。寂しいのとも違う。そうだ、これは自分を責める感情だ。どちらにしろ、いたたまれず、浩は無言で上着を取り、清美の部屋を出て行った。清美はただ、テーブルに突っ伏して泣いていた。
清美は翌日退職願を出し、月末に退職した。転職先は会計事務所だった。そこで、実務を学びながら会計士を目指すのだという。浩は抜け殻のようになり、営業成績はさらに落ち込んだ。
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