売れっ子になった北斎は、名古屋を訪れた際に、120畳分(180平米!)もの巨大な紙に大ダルマを描くというパフォーマンスをしてギャラリーを熱狂させ、一躍、城下の人気者となりました。
また、あるときは、江戸・両国で巨大な布袋図を描いた直後に、米一粒に雀2羽を描いて人々を驚かせたといいます。
実力に加えて、話題作りも上手だったようで、どんどんネームバリューは上がっていき、その評判はときの将軍・徳川家斉の耳に届きます。
こんな話があります。将軍が浅草に鷹狩に出掛けたときに、北斎と画家の谷文晁が召し出されました。谷文晁は富士を、北斎は花や鳥を見事に描きました。その後で北斎は「余興をお目にかけましょう」と、細長い巻紙を広間に広げ、藍色の太い線を力強く描いていきます。次の間から持参した籠を持ち出したと思うと、次の瞬間、2羽の鶏が籠から飛び出してきました。北斎は鶏の足の裏に朱肉を付けて放つと、鶏は藍色の線の上でバタバタ跳ね回ります。
慌てるお付きの人々を尻目に、北斎は「これ、竜田川の風景なり」と、悠然と言い放ったそうです。朱肉で付けた鶏の足あとを紅葉に見立て、紅葉で有名な奈良の竜田川を表現したのです。将軍はことのほか喜びました。
ちなみに、葛飾北斎という名前を名乗っていたのは一時期で、生涯30回ほど画号を改名しています。「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」などが主で、光琳派の絵には「俵屋宗理」、最晩年は「画狂老人卍(まんじ)」と、常人の理解を超えています。さすが、クレイジーアーティストですね。
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