マスコミ報道を萎縮させているのは「権力」ではなく「中立公平」という病スピン経済の歩き方(3/5 ページ)

» 2016年03月15日 08時00分 公開
[窪田順生ITmedia]

「中立公平」という強迫観念に支配されている

言語としてのニュー・ジャーナリズム』(著・玉木明、學藝書林)

 では、世界のジャーナリズムがとっくの昔に放棄した「政治的公平」という法的縛りが、なぜいまだに日本のテレビ局には適応されているのか。

 ひとつはGHQが残した「負の遺産」ということもあるが、なによりも日本のジャーナリズムというものが「中立公平」という強迫観念に支配されてしまっていることが大きい。

 玉木明氏の『言語としてのニュー・ジャーナリズム』(學藝書林)によれば、もともとジャーナリズムというのは言語から「私」を排除した「無署名性の言語」を基底にすえることで、中立公平・客観報道という理念・倫理を確立した。しかし、1960年代の米国で、この理念では「できごと」を人々に伝えることができないという問題がが発生し、主観的なノンフィクションなど「ニュー・ジャーナリズム」が生まれた。

 しかし、残念ながら日本にはこういう潮流は生まれなかった。いまだに新聞・テレビの記者たちが「中立公平・客観報道」という理念を念仏のように唱えて日々取材を行っている。ただ、その一方で「中立公平・客観報道」だけでは世に訴えることができないという厳しい現実は日本も米国も同じだ。そこで、この立派な理念を掲げたまま、こっそりと主観的な報道、個々の政治的立場に基づいた主張を潜りこませるという、今でいうところのステマ的な手法が常態化してしまったのである。さらにタチが悪いのは、当事者が罪悪感ゼロでそれをやっていることだろう。

 それを象徴するのが、2月25日に発行された『ワシントン・ポスト』だ。トランプ人気に歯止めをかけるため、同党指導者に行動を起こすよう促す社説を掲載し、その中でトランプ氏を、「スターリン」「ポル・ポト」「弱い者いじめの扇動家」という表現でディスりまくりで、とにかくこいつの勢いを止めろと共和党支持者の尻を叩いているのだ。

 この偏向ぶりは『ワシントン・ポスト』だけではない。今年の頭くらいまでは、米ジャーナリズムは「どうせすぐ消える」「相手をすればトランプの思う壺」みたいな専門家やワシントンのインテリたちの声を紹介して、ドクター中松さんみたいな泡末候補というイメージを広めていた。つまり、明確な意志をもって「排斥運動」を展開していたのだ。

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