「人間ピラミッド」と「過労死」の問題点が、似ている理由スピン経済の歩き方(4/5 ページ)

» 2016年03月29日 08時00分 公開
[窪田順生ITmedia]

目に見えぬ「空気」が蔓延

 実はそれはマスゲームも同じである。北朝鮮の「共産主義道徳」という授業の教科書の中には、「人生の価値は、社会と集団のためにどれだけ貢献できるかによって決まる」とある。その「社会と集団への貢献」を身をもって学ぶのが、マスゲームなのだ。

 では、このような教育を施された子どもたちが大人になると、どのような社会をつくられるのか。普通に考えれば、「社会と集団への貢献」をなによりも重視し、個性はもちろんのこと、組織存続のためには、個の命を投げ出すことも厭(いと)わない軍隊的な社会になる。

 この平和な日本が軍隊的社会? バッカじゃないのという声が聞こえきそうだが、このコラムでも前に述べたように(関連記事)、日本企業や官庁の多くは戦時中の国家総動員体制をひきずっているというのは、周知の事実だ。企業や役所がそうならば、社会も戦時中のカルチャーをひきずっていておかしくはない。実際、日本社会はそうなっている。

 それを象徴するのが、「過労死」だ。

 今や「KAROSHI」は、「KARAOKE」などと並んで国際社会で通じる言葉なっていることからも分かるように、日本社会特有の現象だ。

 1980年代から、ILO(世界労働機関)や国際社会から問題が指摘されてきたが、日本政府は30年近くお茶を濁してきた。重い腰をあげてようやく実態調査にのりだしたのも昨年である。

 なぜここまで露骨に日本社会は「過労死」にフタをしてきたのか。一番大きいのは「俺たちも死ぬほど働いてきたんだから、お前らも死ぬほど働けよ」という目に見えぬ「空気」が日本社会全体に蔓延(まんえん)していたことが大きい。

 厚生労働省の「毎月勤労統計調査」によると、1960年の労働者1人当たりの平均年間総実労働時間は、2432時間。現代の労働環境に照らし合わせると、土日休みゼロで1年間ぶっ続けで働くようなイメージである。こういう「スーパーブラック企業」が当たり前の社会で生きてきた人間たちが、管理職や経営者になった時代、若者たちから「仕事が辛くて死んでしまう」なんて声が出てきても、「俺たちだってみんなやってきたんだ、辛くても我慢すれば達成感があるぞ」とそのような悲鳴を「甘え」と受け止め、握りつぶしてきたのである。

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