2017年に70周年を迎えたコメ兵。1947年に名古屋市の大須に生まれた5坪の古着屋は、今や全国の一等地に店を構え、中古ブランド品リユースでトップを走っている。70年代からラジオやテレビのCMで発信した「いらんものは米兵(こめひょう)へ売ろう」というフレーズにより、認知度が急上昇。80年代には同業の中でもいち早くブランド品に目を付けて成長してきた。
しかし70年の歩みの中には、会社を揺るがす大きな2つの危機があった。1つは「リーマンショック」、もう1つが「爆買いブームの終焉」だ。危機的状況にコメ兵はどのように立ち向かい、どう乗り越えたのか。コメ兵4代目社長の石原卓児氏に聞いた。
石原社長は“現場主義”で知られている。2代目社長だった父の急逝を機に、家電量販店からコメ兵に一般社員として転職。名古屋や大阪を中心に展開していた同社の東京進出を推し進めた。2000年代初めのコメ兵は「なんでも買い取る総合リユースショップ」から「ブランドのコメ兵」へと変化していくさなかだった。社長に就任する前の卓児氏は、現場に立ちながらコメ兵への認知の変化を肌で感じていたという。
店名を「コメ兵」から「KOMEHYO」に変更し、内装の雰囲気も「リサイクルショップ」から「リユースセレクトストア」へ。“庶民の量販店”から、“百貨店を利用する消費者が過ごしやすいセレクトストア”と変わっていった。
こうしたブランド特化の方針転換が功を奏し、07年には売上高300億円を突破。しかしそこに大きな壁が立ちふさがる。08年のリーマンショックだ。
「リーマン直後の2年間は、本当に危機的状況でした。322億円だった売上高が、289億円、238億円と下がっていく。それまでのコメ兵は名古屋と大阪の売り上げが支えていてくれたから、東京の店舗展開に投資ができていた。ところが名古屋や大阪まで危なくなったんです」
当時東京・新宿店で店長を務めていた石原社長は、名古屋本社に戻り、立て直しに奮闘した。まずは組織を「全部作り直しました」。各地域へ順次出店を進めていたコメ兵は、名古屋本社と東京・大阪での各店舗との情報共有や意思決定に課題があった。そこで店長への権限移譲を進め、店舗における判断のスピードを上げた。
さらに12年には「商品センター」を新設。東京と名古屋の店舗がそれぞれ行っていた買い取り後の商品の検品や新品発注などを一元化し、売れ行きがよい店舗へと商品を送るシステムを確立した。
接客方針も変更した。「10年以降に大きく変化したのは、誰もがスマートフォンを持つようになったこと。これまでプロが提供できる価値は、商品に対する“お客さまが知らない情報を持っていること”でした。ですが今はお客さまは知識が豊富になったし、手に持っているスマホですぐに情報を得ることができる。機械からは提供できない、人間味のある接客や商品の提案が必要だと考えました」。
こうした方針変換が奏功し、落ち込んだ業績は少しずつ回復した。11年の東日本大震災震災後は自粛ムードもあり伸び悩んだが、「モノを大事にする」という消費者心理が強くなる側面もあった。13年に社長に就任。16年には訪日中国人観光客による「爆買い」も追い風にして、連結売上高431億円と過去最高を更新した。
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