1968年に建設され、日本の高層ビルに大きな影響を与えた建物がある。「霞が関ビルディング」だ。
「な、なんだよ、いきなり大げさな。高層ビルといえば、『あべのハルカス』や『横浜ランドマークタワー』でしょ」と思われたかもしれないが、冒頭の言葉は仰々しくもなく、誇大表現でもない。
当時、日本最速のエレベーターの速さは分速150メートルだったのに対し、霞が関ビルは倍の分速300メートルを実現したり、建物の部材をあらかじめ工場で製作し、建築現場で組み立てるプレハブ工法を導入したり、日本初の建築技術はこのほかにもたくさんある。また、敷地内に広場があったり、建物内に郵便局などの施設が入っていたり、壁面にウインドウアートを映し出したり。いまの高層ビルでは当たり前のように存在しているモノが、霞が関ビルで初めて取り入れられたのだ。
最上階に展望台をオープンしたところ、多い日には1日に2万1000人が来場。修学旅行先としても人気を集めたほか、日本一高い場所として結婚式も挙げられた。ちょっとしたブームを巻き起こしていたなかで、「霞が関ビル○個分」といった表現もよく使われた。大きさなどを示すときに「東京ドーム○個分」といった話を聞いたことがあると思うが、東京ドームが誕生する前は、約52万平方メートルあるビルを用いて、「霞が関ビル○個分」といった表現が使われていたのだ。
さて、ここまで書いてきて、疑問がひとつ。50年前に建てられた高層ビルがなぜいまも存在しているのか、である。半世紀も経つと、「使い勝手が悪くなった」「設備が古くなって、時代に対応できなくなった」といった理由で、建て替えるケースが多い。そうしたなかでも霞が関ビルは形を変えずに、残り続けている。
3億円事件があって、人生ゲームが発売され、大卒初任給が3万290円の年に誕生したビルで、いまも7000人ほどが働き続けるのには、きっと理由があるはず。その秘密を探るために、三井不動産の大益佑介さんに話を聞いた。聞き手は、ITmedia ビジネスオンラインの土肥義則。
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