鉄人・衣笠祥雄氏は、なぜカープの監督になれなかったのか赤坂8丁目発 スポーツ246(1/4 ページ)

» 2018年04月25日 10時41分 公開
[臼北信行ITmedia]

 鉄人が、この世を去った。

 日本球界に数々の功績と偉業を残した元広島東洋カープの衣笠祥雄氏が上行結腸がんのため、4月23日に死去した。71歳だった。

 1970年代後半から1980年代にかけてカープ黄金時代の主力として名を馳せ、引退するまで2215試合連続出場記録の金字塔を打ち立てた名選手。あの王貞治氏に次ぐプロ野球界では2人目となる国民栄誉賞も受賞し、野球殿堂入りを果たした。背番号「3」は広島の永久欠番だ。

 間違いなく誰もが認めるスーパースター。ところが非常に不思議なことがある。1987年のシーズンをもって現役引退後は一度も指導者としてユニホームを着ていないのだ。65年に広島へ入団して以来、23年間に渡ってカープ一筋の生え抜き。誰しもが認めるカープの功労者だ。

 これだけの偉人で実績十分な衣笠氏であれば、文句なしにカープの監督としてタクトを振るう資格があったはずである。ところが、ついに古巣の監督どころかコーチにすら就任する機会が巡ってこないまま天に召されてしまった。

 ただチームOBや球団関係者、また現場首脳陣やスタッフ、選手の間でも衣笠氏の指導者としてのカープ復帰が難しかったことは広く知れ渡っていた。その理由としてウワサされているのが球団経営陣との「確執」だ。

 特に現在の3代目オーナー、松田元氏とは「もともと折り合いが悪い」とささやかれており、そのイザコザを生んだきっかけについてもさまざまな説が水面下では飛び交っている。

鉄人がこの世を去った
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