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“世渡り力”だけでは生き残れない ダメ人間のための「フリーランス入門」 あの宮崎駿も最初はうまくいかなかった(3/4 ページ)

» 2018年07月23日 08時30分 公開
[小林拓矢ITmedia]

宮崎駿も「映画打ち切り」を経験 

 さらに竹熊さんは言う。「突き抜けた能力と同時に、この人は『ほっとけない』と思わせるのが大切。それで人が寄ってくる」。その一例として挙げたのが宮崎駿だ。竹熊さんによると、宮崎駿が監督を務めた映画『ルパン三世 カリオストロの城』は、上映当初は人気がなく打ち切りになることもあったのだという。私は「(元皇族の)黒田清子さんも好きだといわれている、あの名作が?」と思わず口に出してしまった。

 今では名作とされるこの作品も、人気が出始めたのは上映からしばらくたってからだという。その間、宮崎駿は干されていた。

 しかし当時、徳間書店の編集者であった鈴木敏夫が、まだ若かった宮崎駿の才能を見いだし、『風の谷のナウシカ』の連載を雑誌に書かせることで、映画化にまでこぎ着けたのだ。

 竹熊さんは、宮崎駿の事例を「天才タイプの人には、共犯関係になる人がつく」のだと解説する。しかし、受け身の姿勢ではダメで、「見いだしてもらうためには、常に何かをやっていなくてはならない」のだと強調した。

竹熊さんが語る「マンネリに陥った過去」

 竹熊さんは自身の働き方を振り返り「(与えられた仕事をこなすという)プロの仕事ができないんです」と笑う。注文仕事を満たすことには飽き飽きしてしまったが、その後、自分の書きたいものを能動的に書いていたら少しずつファンがついてきた、ということらしい。

 かつて竹熊さんは、『サルまん サルでも描けるまんが教室』(相原コージとの共作、小学館)というベストセラーを出し、その仕事によって知名度が高まっていった。この書籍は作者を模した2人の青年漫画家が、ヒットする漫画の研究や執筆に取り組み、ついには大ヒット作を描く軌跡を、参考書のような章立てで描いている。

 だが、次第にこの『サルでも描けるまんが教室』のような、過去作品の二番煎じの仕事ばかりが求められるようになり、自分がやりたいと思う仕事が通らない時期が続いた。そんな仕事ばかりをやっているうちに、竹熊さんはいつしか「漫画評論家」と呼ばれるようになってしまった。でも竹熊さんが本当にやりたいのは漫画の原作を作ることであって、漫画を評論することではなかったのだ。それで、「(仕事として漫画を)読むのがいやになってしまった」のだという。

 その後、竹熊さんは「たけくまメモ」というブログを自分で始め、毎日、膨大な量の記事を更新するようにしていた。「ブログをやることで、ライターに復帰できた」と語っている。この話を聞いて私は、フリーとして生き残っていくためには、自分がやりたいと思うことをコツコツと積み重ねていくしかないのだと改めて思った。

 そんな竹熊さんは、いつか「漫画監督」になりたいのだという。かつて漫画原作者は、コマ割りやキャラクターの配置などを大まかに表した設計図である「ネーム」を描くことはなかった。「原作者がネームを描くのは越権行為」だというのが当時の常識だったからだ。しかしネームまで原作者が行う『DEATH NOTE』(原作:大場つぐみ、作画:小畑健、集英社)が大ヒットしたことにより、原作者がネームも描くスタイルが主流になった。竹熊さんによれば、話の筋を考えるだけでなく、ネームやキャラクターなど漫画全体のコンセプトを考えられる人は単なる「漫画原作者」ではなく、「漫画監督」と呼ぶべきだという。

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