かくして、世界の食糧不足を解決する最後の望みとして残ったのが、スピルリナだったというわけだ。実際に1974年10月14日の『読売新聞』の「“未来の食料”実用化へ 塩水湖の藻“スピルリナ”」という記事には、「大日本インキ化学工業といった民間企業でも一斉に研究体制に入った」とある。
また、『日本経済新聞』(1977年7月15日)にも、5年前から取り組んだ「スピルリナ計画」は「同社の生物化学事業部が初めて本格的な企業化に取り組む事業」として紹介されている。そこで、大日本インキ化学工業がこだわったのが、「安心安全」である。
「当時、海外では既に天然の池や湖でスピルリナの生産をする企業がありました。しかし、自然の池や湖の場合は岩や土の中に人体に有害な金属があるので、藻であるスピルリナはそれを吸ってしまう。つまり、天然のスピルリナはどうしても重金属汚染のリスクがある」(学術部長)
こうして世界で初めて「管理栽培」というものにこだわったスピルリナ工場が、タイのバンコク郊外に誕生したのである。人工のプールにおいて、衛生的に管理された中で、スピルリナの大量培養と商品化に成功したのである。
当初は、熱帯性の植物ということで気温の高いサウジアラビアなども候補に上がっていて現地政府とともに実現を進めていたというが、大量の水を使用することで頓挫。発祥の地であるチャドと緯度も同じで、水も豊富なタイに白羽の矢がたったのだ。
その後、米国にも工場を建設。さらに生産が追いつかないということで、中国の海南島にも増設。現在はカリフォルニアにある世界最大規模の工場が生産拠点となっているという。
この独自技術と生産体制で30カ国以上に供給する「世界一のスピルリナメーカー」となったというわけだが、そこに至るまでの道は決して平坦なものではなかった。60年代であれほどあおられた「食糧不足の危機」もトーンダウンしたことで、「未来の食料」に対する注目度も下がっていった。
そこで、その豊富な栄養素から、「健康食品」として売り出していたのだが、当時、国内ではキャラが丸かぶりする「偉大な先人」がいたため、誰もが知るメジャー製品という座をなかなかつかめないのでいたのだ。
それは「クロレラ」だ。
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