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» 2019年01月30日 07時00分 公開

『俺たちの「戦力外通告」』著者が綴る:私はこうしてプロ野球をクビになった (4/6)

[高森勇旗,ITmedia]

不貞腐れた自分 腐らなかった佐伯貴弘

 同じ左打ちの内野手でポジションが被り、チャンスは一気に減った。若くて可能性のある方にチャンスが与えられることは、どう考えても普通である。しかし、当時22歳だった私には、現状を素直に受け入れるだけの器量がなかった。同級生の梶谷はショートで毎試合出場し、ピッチャーからセカンドに転向した同じく同級生の北も毎試合使われている。同級生が試合に出ていながら、試合に出られていない自分を受け入れるには、若すぎたのだろうか。分かりやすく不貞腐れ、練習にも熱がこもらなくなり、一気に情熱が冷めて行った。そんな中で、同じように2軍でベンチを温めている選手がいた。佐伯貴弘である。

 1998年の日本一に主力選手として大活躍し、この年の前年の2009年には114試合に出場し、12本の本塁打を放っている。しかしこの年は、村田修一、内川聖一らを中心とした若手への世代交代の中で、開幕前からチャンスを与えられなかった。2軍の試合でさえ、代打のチャンスが2日に1回あるかないか、という状況だった。その中でさえ、佐伯の代打成功率は神がかっていた。それでも、1軍昇格はおろか、2軍でのチャンスが増えることすらなかった。

 佐伯は、腐らなかった。毎朝6時にグラウンドに現れ、2時間のトレーニングを欠かさなかった。佐伯以外に誰もいないトレーニングルームから、金属の擦れ合う無機質な音が毎朝響いていた。試合では、誰よりも前に立って声を出し、後輩のバットを拾いに行った。試合が終盤に入ると代打の準備に入る。その時の集中力は、誰しもが呼吸をするのも憚(はばか)るほど、鬼気迫るものがあった。一方、そんな佐伯の姿を横目に私は相変わらず自分が試合に使われないことへの不満を周囲に漏らしていた。シーズンが終わる頃には、私は腐り果てていた。このままクビになるだろう。そう思われてもなんら不思議ではないくらい、存在感も信頼も失っていた。

 それぞれの10年は終わった。佐伯は戦力外通告を受け、私は受けなかった。11月、2軍のファン感謝デーが横須賀で行われた。スーツを着て現れた佐伯は、ファンに向かって泣きながらスピーチをした。

 「2010年は、佐伯貴弘にとって、最高の年になりました」

 この言葉は、後の私の人生に大きな影響を与えた。チャンスを与えられず不貞腐れている私よりも、はるかに少ないチャンスの中で、気持ちを切らさずにやりきった男の最後の言葉は、「最高の年」だった。自らの1年間が、とても情けなく思えた。球場を去る佐伯を見ながら、自分の不甲斐(ふがい)なさと悔しさで涙が止まらなかった。「諦める」という行為が最も愚かな行為だということを、佐伯との日々で学んだ。多くのチャンスと情熱と信頼を失った年だったが、人生においてとても大切なことを学んだ年でもあった。

photo トライアウト2試合目、最終打席最終スイング

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