「隠すことは何もない」? ネットの“のぞき見”、鈍感さに潜む危険世界を読み解くニュース・サロン(2/6 ページ)

» 2019年03月28日 07時00分 公開
[山田敏弘ITmedia]

確立してきた「隠すことは何もない」論

 実のところ、この論争は世界中で起きており、さまざまな議論が繰り広げられている。筆者もカンファレンスや論文などでいろいろな意見を見聞きしてきたが、先に結論を言うと、やはりプライバシー問題を楽観視するのはナイーブであり、軽視してはいけないと感じている。そこで、世界ではどんな議論がなされているのか、あらためて考察してみたい。

 見られても困らないと主張している人たちの言い分は、欧米を中心に“Nothing to Hide Argument(隠すことは何もない論)”という考え方として「確立」している。ウィキペディアにもその議論を解説するページが存在しているくらいだ。

 もともとは、ネットの時代になる前から、政府などの国民監視に対して、この“隠すことは何もない論”という主張は存在していた。要は、暮らしているのが独裁国家などの監視社会であっても、「監視を別に気にしない」という体制寄りの人たち、または楽観的な人たちの言い分の一つだった。

 それが、誰しもプライバシーが脅かされるネット時代になった昨今、プライバシー軽視派が最もよく使う主張になっている。政府機関だろうがFacebookのようなSNSだろうが、検索エンジンのGoogleだろうが、オンライン小売大手のAmazonだろうが、自分の詳細なデータを保持していても、自分は隠し立てすることはないので痛くも痒くもない。悪いことはしていないから、何を知られても平気だ、という考え方だ。

 ただそう主張をしている人たちの多くは、まず自分たちのデータがどれほど集められているのかについての自覚がなかったりする。

photo 私たちのデータはどれほど集められているのか

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