こうして自由契約となった荻野だが、幸いにも、荻野の元には、古巣の日立製作所野球部の監督から「日立の野球部に戻らないか」と直々にオファーが届いた。荻野は千葉ロッテマリーンズを退団後、再び日立製作所の正社員として働きながら、野球選手として現役であり続けるという道を選んだ。
再びプロのマウンドに立つ日は訪れなかったが、野球を続けたことが、その後の荻野に転機を呼ぶことになる。日立製作所で、プロ野球での経験をチームの若手へ還元するという役割を与えられた荻野は、自らの経験を生かして若手にアドバイスをしているうちに、気づいたことがあった。
「プロ野球選手にも、社会人選手にも同じ言葉を使ってアドバイスをしているのに、プロ野球選手はすぐにできて、社会人選手はなかなかできない。そんな経験が何度もありました。それを“野球センスがない”という言葉で片付けてしまっていましたが、ある時、プロ野球選手時代に指導した子どもたちのことを思い出したんです」
荻野は、千葉ロッテマリーンズの選手時代に、何度か子どもたちに野球を指導することがあった。指導した子どもの中に、キャッチボールすら危なくてやらせることができない子どもがいた。その子どもに声をかけてみたところ、何かに怯えているように感じた。そこで周囲の大人に聞いてみると、どうやら家庭環境に問題があるらしいことがわかった。
「その時のことをふと思い出し、センスというのは環境が作るものなんだということに気付きました。もしそうだとすれば、センスは鍛えられます。そこで、僕はこれまで野球を通じて鍛えてきた感覚を言葉にして、指導理論に落とし込むことにしました」
荻野はこれをきっかけに、日立製作所を退職し、自ら考案した指導理論『スポーツセンシング』の普及活動を行いながら、指導者としての道を歩みだしている。
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