タピオカ工場もあったのに、沖縄から消えたワケ(3/4 ページ)

» 2019年08月21日 08時07分 公開
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沖縄に「タピオカ工場」開業

 1960年前半の沖縄は、日本政府がサトウキビの工場を拡大したり、キューバ危機で国際的な値段が上がったりしたので、「サトウキビブーム」が起きていましたが、1965年ごろ、値段は暴落。さらに、日本政府が砂糖の原料の「粗糖」を輸入自由化を決めたことで、サトウキビ農家に不安が広がっていました。

 そんな空気を察知して、サトウキビに代わる作物を探していた沖縄県の北部にある宜野座村は、1965年、「国際澱粉興業KK」と提携して、タピオカ栽培をする農家に補助金を出し始めました。宜野座村は現在、阪神タイガースのキャンプ地にもなっています。

 会社と農家はサトウキビ並みの買い上げ価格の協定を結んだこともあり、宜野座村の農家のほとんどは、タピオカを試験的に栽培することになりました。

 宜野座村では、2000坪の敷地にタピオカ工場の建設も始まりました。タピオカの原料のキャッサバを工場でデンプン加工して、輸出するためです。

1966年1月7日付紙面

 1966年、工場の操業が始まり、本土への輸出拡大に向けて沖縄側は交渉を進めていきました。

 新聞には沖縄からのタピオカでんぷんの輸出は「明るい見通し」との見出しも躍ります。

 しかし、その翌年、一気に雲行きが怪しくなりました。

 1967年4月、沖縄側は、タピオカの関税免除は「非常にカベが厚くこんごさらに折衝しなければならない」との見解を新聞紙面に述べています。

 さらに、宜野座村で栽培していたタピオカの初めての収穫は、採算が合いませんでした。

 一反当たり7〜10トンの収穫を予想していたものの、一反当たり3〜4トン、多いところでも五トンしか収穫できず、予想を大幅に下回ったのです。

 記事には、こうあります。

 「でんぷん工場が落成したが、原料がなく操業ができなかった。工場側では一年をみあわせ、ことし末ごろ操業開始の予定だというが、さいきんでは農家でタピオカ栽培をしているのが少なく、操業があやぶまれる」

 タピオカは収穫の翌年には土壌が荒れるとも言われているので、農家は栽培をやめていったようです。

 実は、この年の7月には条件付きで政府はタピオカの輸入を条件付きで認めたのですが、工場は閉鎖状態で、1968年までに会社は倒産しました。

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