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インタビュー
» 2019年11月26日 08時00分 公開

「課題ドリブン」で出発し、「ソフトウェア・ファースト」で解決:医療業界を変えたエムスリーに聞く 革新的サービスを開発するためのカギ (1/3)

世界10カ国の医療従事者を巻き込む一大メディカルプラットフォームを構築したエムスリー。医療業界という非IT領域にテクノロジーを持ち込み、革新的なサービスを打ち立てた同社のサービス開発戦略を聞いた。

[伊藤健吾,ITmedia]

 AI活用やDX(デジタルトランスフォーメーション)、アズ・ア・サービス化によるサブスクリプションモデルの導入など、テクノロジーを駆使した新たなビジネスがさまざなな業界を席巻している。今まで非IT企業だった企業群もソフトウェア開発をコア・コンピタンスにしていく必要に迫られる中、組織全体でITシフトを進めるためのステップを書き記したのが及川卓也氏の著書『ソフトウェア・ファースト』(日経BP)だ。

 及川氏は執筆に際して、ソフトウェア・ファーストを実践することで各業界に新風を吹き込んできた日本企業に取材を実施。デジタル変革のあるべき論だけではない、リアルな実情を踏まえたソフトウェア開発力向上のヒントを探った。

 今回紹介するのは、医療関係者向け会員制サイト「m3.com」や、製薬企業向けマーケティング支援サービス「MR君」を展開するエムスリーだ。医療業界という非IT領域にテクノロジーを持ち込み、日本をはじめ米国や中国など世界10カ国の医療従事者を巻き込む一大メディカルプラットフォームを構築している(2019年9月時点)同社のサービス開発戦略を、VPoEの山崎聡氏とエンジニアの西場正浩氏に聞いた(聞き手:及川卓也)。

左から、インタビュアーの及川卓也氏、エムスリー業務執行役員 VPoEを務める山崎聡氏、エムスリーでAI・機械学習チームリーダーを務める西場正浩氏

革新的サービスで医療業界を変えたエムスリーの開発戦略

及川 今回『ソフトウェア・ファースト』という書籍を書いた理由の一つに、私が在籍していたMicrosoftやGoogleがやっているプロダクト開発手法が、さまざまな産業に応用可能なはずという考えがありまして。今、多くの企業が取り組んでいるAI活用やDXなども、ソフトウェア開発力を高めなければ形にできません。

 ただし、ITの力で既存のビジネスを変えていくには、古くからある商習慣が抱えている課題をきちんと理解した上で、ブレークスルーするポイントを見つけなければなりません。エムスリーさんは、医療業界というITとは一見縁遠い世界をデジタル化してきた先駆者なので、どんな戦略で“未開の地”をひらいてきたのかを教えていただければと思います。

山崎 ありがとうございます。確かに医療は参入障壁の高い業界で、ただ「ITを使った便利なサービスがあります」と伝えたところで、なかなか利用してもらえない側面があります。

 そもそも医師は簡単に会ってくれません。医師の使命は患者をよくすることなので、それ以外の事柄は相対的に重要度が上がらないからです。私たちが「MR君」で行っている医薬品情報の提供も、以前は製薬企業のMR(医薬情報担当者)が足しげく病院に通って信頼関係を築き、時間を取ってもらえるようにならないとできないというのが現状でした。

山崎 聡(やまざき・さとし)氏。千葉工業大学大学院博士後期課程中退後、ベンチャー企業、フリーランスを経て、2006年、臨床研究を手掛けるメビックスに入社。09年、メビックスのエムスリーグループ入り以降、主にプロダクトマネジメントを担当する。12年にグループ会社であるシィ・エム・エス取締役に就任。15年、デジカルを共同創業、17年にVPoEとなり、18年からエムスリーの業務執行役員 VPoEを務める

及川 一般的なビジネスなら、「あなたにメリットがあるし、こちらにもメリットがある」というWin-Winな関係性を示すことができれば、比較的楽に営業やマーケティングができます。それが医療業界では通用しないという特殊な事情があったのですね?

山崎 はい。医薬品を使ってもらいたい製薬企業からすると、一般的なマーケティング戦略でよく使われる「4P」(Product=製品/Price=価格/Place=流通/Promotion=販売促進)を最適化すればOKという考え方では限界があったわけです。

 そこで、エムスリーはヘルスケアビジネスの7P(下図参照)全ての課題解決に取り組むことで、患者のため、業界発展のためという共通のビジョンを持つ医療従事者の方々とつながりながら壁を乗り越えてきました。

出典:エムスリー株式会社 会社説明資料(2019年10月)

サービス開発の基本は「ギャップを埋める」こと

及川 この7Pをベースに開発・提供しているのが、「MR君」の他、医療ニュースサイト「m3.com」、転職支援サービス「エムスリーキャリア」、治験マッチングサービス「治験君」、クラウド電子カルテ「エムスリーデジカル」など複数のサービスで形成される包括的なメディカルプラットフォームになるわけですね。

山崎 その通りです。ただ、どのサービスも基本的なコンセプトは同じで、「ITでギャップを埋める」ということを愚直に追求しています。

 「MR君」を例に説明すると、医師も一般人と同じようにインターネットを使いますし、「MR君」をリリースした00年ごろにはインターネットで薬の情報を調べ始めていました。一方、当時の製薬企業はインターネットでのプロモーションをほとんど行っておらず、そこにギャップが生まれていました。だからエムスリーはインターネットで医薬品情報を提供する「MR君」を立ち上げて、ギャップを埋めるお手伝いをしようと考えました。

 ただし、このギャップを埋めるには、前述したような医療業界ならではの商習慣を乗り越えなければなりません。そこで7Pを前提に、できるだけ多くのステークホルダーの課題解決につながるようにサービス設計をする必要がありました。

及川 具体的にどういう考え方でサービス設計をしたのですか?

山崎 私たちの推定によれば、製薬企業のMRが医師を1回訪問するのにかかる費用は約1万円なんです。一度だけでは記憶に残らず、2回訪問して初めて自社の医薬品情報を記憶に残すことができたとしたら、情報提供にかかるコストは2万円になります。それをインターネット上の「MR君」で展開すると、約300〜500円で医師の認識を得ることができるのです。

 加えて、MRの年間人件費は業界全体で1兆5000億円かかっているといわれているので、そのコストを削減できれば、製薬企業は新薬開発など他のことにお金を投じることができます。それで医療の質が上がれば、患者のためにもなる。ここで初めて、医師と製薬企業のギャップを埋める「理由」が見えてきます。こういう考え方で「MR君」が作られました。

及川 そこまで緻密に設計しても、関係するステークホルダーを巻き込む仕組みがないと、高い参入障壁を乗り越えることができませんよね?

山崎 だからこそ、他方でメディカルプラットフォームを構築するのが大切でした。一つ一つのサービスで特定の課題を解消していきつつ、プラットフォームとして7Pに関する複数のサービスを展開できれば、多くのステークホルダーを巻き込んでいくことができます。私たちはインターネットを活用し、健康で楽しく長生きする人を1人でも増やし、不必要な医療コストを1円でも減らすという最終目標があるので、レバレッジの効くIT技術を使って医療業界を一気に現代化したいんです。

 これはアフリカに電話を普及させるのと似たような発想だと思っています。インフラ整備や端末に搭載される各種サービスの開発を、中途半端な技術でやっていたのでは、なかなか使ってもらえず普及に多大なコストがかかってしまいます。でも、携帯電話やスマートフォンのような革新的なプロダクトが登場した途端、アフリカの電話は一気に普及率が高まったと聞いています。つまり、アフリカで電話を普及させるには、最も良いプロダクトを投入するのが最も合理的でコストの低いやり方だったということです。

 私たちもITを駆使して最高のソリューションを提供しつつ、その数を増やしていくことで医療業界にあるさまざまなギャップを埋めていきたいと考えています。

及川 プラットフォーマーとしてサービス領域を広めていくには、自社内では土地勘のなかった分野の課題を発見して適切な機能を提供していくのも大切です。これは言うほど簡単ではないと思いますが、どうやってサービス領域を広めてきたのですか?

及川卓也(おいかわ・たくや)氏。大学卒業後、DEC(ディジタル・イクイップメント・コーポレーション)に就職してソフトウェアの研究開発に従事する。その後、MicrosoftやGoogleにてプロダクトマネジャーやエンジニアリングマネジャーとして勤務の後、プログラマーの情報共有サービスを運営するIncrementsを経て独立。2019年1月、テクノロジーにより企業や社会の変革を支援するTably株式会社を設立

山崎 最初に事業ドメインとプロダクトドメインを整理することから始めました。医療業界はすごく大きなフィールドで、そこに対してできることはいくつもあります。例えば、製薬プロモーション事業であったり、医師の転職事業、電子カルテだったり。とはいえ全部を一気にやろうとしても無理があるので、ITでギャップを埋められる対象領域を洗い出して、現時点のテクノロジーや手持ちのリソースできちんと課題を解決できるところからサービスを投入しています。

 今、当社は世界で約30種類くらいの事業を展開していますが、あと20くらい新事業アイデアがあります。この既存30+アイデア20=50の事業を縦軸とすると、横軸は10カ国、全部で500マスの事業ドメインがあることになります。そのうち、現時点で埋まっているマスは50もない。この500マスをどういう順番でどう埋めていくと最短で事業がスケールするかを考えながらサービス開発を行っています。

 その際、質問にあった新規領域に進出するときは、M&Aも積極的に活用しています。例えば電子カルテであれば、12年にシィ・エム・エスという会社をグループ化しました。同社はオンプレミス環境で電子カルテを提供していた会社で、M&Aすることでそもそも電子カルテの業界で何が起こっているのか、どこがギャップなのかを学習したのです。そうして見つけたギャップを解消するには、どんなテクノロジーが必要なのかも検討した結果、クラウド型の電子カルテを開発しようと。

及川 なるほど。

山崎 こんなアプローチで医療業界を抜本的に変えていくので、M&Aをした会社のシステムを刷新することもあれば、昔、自分たちが作ったシステムを最新のものに置き換えることもあります。この文脈で出てくるのが、今はAIや機械学習だったりする。だから、私たちは常に最先端の開発ができるように腕を磨き続けなければと思っています。

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