赤字に苦しんできたダイエーに“復活”の兆し 流通帝国の崩壊から黒字化までの道のりをたどる長浜淳之介のトレンドアンテナ(2/6 ページ)

» 2020年01月15日 05時00分 公開
[長浜淳之介ITmedia]

価格破壊の先駆者

 ダイエーは1980年、小売業界で日本では初めて年商1兆円を突破。創業者・中内功氏の強烈なリーダーシップにより、「価格破壊」をスローガンとした流通革命の旗頭として、一世を風靡(ふうび)した企業である。

 ダイエーをはじめ、イトーヨーカ堂、ジャスコ(現・イオン)など、スーパーが台頭するまでは、商品の値段はメーカーが主導して決めており、今のような顧客の声や総意が値段を決めるという考え方はなかった。中内氏とダイエーは常に消費者の側に立ち続けたが、バブル崩壊後のモノ余りと格差拡大に対応できなかった。

 物価が上昇する中で価格破壊をするから意味がある。デフレならそれ以上破壊したら、利益が出ない。

ダイエー1号店があった千林商店街

 ダイエー1号店は1957年、大阪市旭区にある京阪・千林駅前の商店街の一角に「主婦の店・ダイエー薬局」(のちの千林駅前店、既に閉店)としてオープンしている。当初は化粧品、薬品、雑貨、菓子などを売る店だった。千林駅の目の前には「日本一安い商店街」の異名を持つ、全長660メートルのアーケード街が広がる。イオンに吸収されたニチイの創業店の1つ、衣料品「赤のれん」もかつて同じ千林商店街にあった。61年、近くに千林店をオープンしたが今はパチンコ店となっている。

元ダイエー千林店跡地は今はパチンコ店に

 翌58年には、のちの旗艦店となる2号店を、スーパー形式で神戸市中央区の三宮にオープン。この店がヒットしてチェーン化に舵を切った。

神戸市三宮にある元ダイエー村。第2店(女館)はクレフィ、第3店(男館)がユニクロ。第4店(ジーンズ・ジョイント)がZARAに変わった。

 64年には、日本初のGMS、ショッピングセンター(SC)ともいわれる庄内店(SC名は庄内ショッパーズプラザ、現グルメシティ庄内店)を大阪府豊中市にオープン。

 同年には、松下電器産業(現・パナソニック)の製品を20%引きという当時としては破格の安価で売ったため、松下がダイエーに出荷を停止。ダイエーは松下を独占禁止法違反で訴え、ダイエー・松下戦争が勃発した。その後、ダイエーは自社開発のプライベートブランド(PB)でカラーテレビを廉価販売して人気を博すなど対立は続き、松下幸之助氏の死去後の94年にやっと和解している。

 68年には日本初の本格的郊外型ショッピングセンター、香里店(現在は閉店)を大阪府寝屋川市にオープン。

 72年には三越を抜いて小売業界日本一に君臨。東証一部に上場も果たした。

 75年、東京の旗艦店である碑文谷店(現イオンスタイル碑文谷)が目黒区にオープン。80年代には各地の地方スーパーを傘下にして規模を拡大した。

 安価を実現するために、PBを展開するのに当初から熱心で、61年に上島珈琲と提携して「ダイエーインスタントコーヒー」を発売している。こうした実験的な取り組みの後、「セービング」のPBブランドが確立するが、大手メーカーの製品を模したお粗末なものも少なくなかった。これが、ダイエーブランド凋落(ちょうらく)の一因にもなった。

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