「おひとり様」礼賛ビジネスの巧妙な罠――“幻想の安心”を買った先の破滅とは孤独は「人生を豊か」にするのか?(2/4 ページ)

» 2020年02月26日 08時00分 公開
[真鍋厚ITmedia]
※本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

コミュ弱者の陥る「消極的な孤独」

 前者は、自らさまざまな人とつながり、容易に関係性を築けるため、「積極的な孤独」とのバランスをうまく取れますが、後者は、常に「消極的な孤独」に甘んじているために、そのような現実をなるべく直視せずに済む生活習慣を身に付けようとします。心理的な防衛機制です。

 つまり、「おひとり様」「一人客」向けビジネスの充実は、「強者」にとっては実利的な選択肢が増えることでしかないのですが、「弱者」にとってはそれ以上に格好の隠れみのとして機能してしまう可能性があります。それは「見た目」=「ぼっち」を気にしなくても良い半面、社会的孤立の問題が誰にも気付かれにくくなることも意味しています。

 つまり、「結婚したい」「彼女・彼が欲しい」「友達が欲しい」「趣味のつながりが欲しい」etc……などと心底思っていても、とりあえず「おひとり様」「一人客」向けビジネスのユーザーとして丁重に遇されることによって、あるいは「ひとりでいること」が1つの美学、処世術として「他人といること」よりも“上位”に位置付ける言説によって、自己を正当化する可能性があり得ます(ただし、自己啓発本の多くは主として「ひとりの時間を作る」ことの重要性を説いており、「いつでもひとりでいること」を推奨しているわけではないのに注意が必要です)。

 このような弥縫(びほう)策は「認知的不協和」として知られています。これは心理学者のレオン・フェスティンガーが提唱した概念で、イソップ童話の「酸っぱい葡萄」がよく例え話に出されます。狐が美味そうな葡萄を発見して、手を伸ばしますが、高くて届きません。最終的に狐は、「この葡萄は酸っぱいに違いない」と断定して立ち去るのです。

 前述の場合では、人が相反する認知として「誰かとつながりたい(が)」と「いつもひとりでいること(を苦にする)」に同時に直面した状態を言い、その際、人は不協和を解消するためにどちらかの認知を修正するというものです。「いつもひとりでいること」がむしろ「誰かといるよりも素晴らしい」とする認知に修正されるわけです。

 孤独死を恐れている人が「野垂れ死にのすすめ」的な本を読んで安心するのが典型ですが、ブラック企業を辞められない人が「過酷な労働も貴重な経験」に読み替える場面でも起こります。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.