プロスペクト理論とは、当連載の第8回で取り扱った行動経済学上の意思決定モデルだ。
今回は「参照点」という概念から、価格の吊(つ)り上げを行わないという意思決定を行った小売事業者の経済合理性をみていきたい。参照点とは、私たちが物事の損得を測る際に基準となる点をいう。例えば、平時におけるマスクの相場が500円であるとすれば、参照点は「500円」となる。
第8回でも取り上げた通り、プロスペクト理論は人間の「損失回避性」を明らかにしている。人間は、利益と損失の幅が同じでも、損失をより重視するという性質を持ち合わせているのだ。
これは、プロスペクト理論の「価値関数」というグラフで表現できる。図はマスクを値上げした場合と、値下げした場合に、顧客が感じる価値の動きを表現している。
図において、参照点となる500円から450円にマスクを値下げした場合に顧客が感じる価値を1程度とする。このとき、500円から550円に値上げしたときに顧客が感じる価値の幅は−2程度となる。つまり、50円の値下げよりも50円の値上げの方が強く印象に残ってしまうことがグラフからわかる。
小売店がマスクを転売ヤーの提唱する”市場原理”に合わせて値上げしなかった背景には、小売価格(参照点)から著しく乖離(かいり)した価格を提示することで、大多数顧客の価値を毀損(きそん)し、信頼低下を招くと判断したからであろう。
品薄に便乗して過度な値上げを行えば、中長期的にみたマイナス効果は計り知れない。確かに短期的には利益こそ上げられるかもしれないが、「顧客の弱みに付け込んで値上げする会社」という評判がたてば、たちまち市場からの退場を余儀無くされるだろう。これもまた転売ヤーの主張する”市場原理”に基づく結果だ。
つまり、今回のような転売行動は、需給バランスの偏りに根ざした正当なものだという主張があるが、その実態は消費者の信頼を換金しているにすぎない。”市場原理”という言葉の崇高さとは相反する内容ともいえる。許される/許されないという問題以前に、そんな転売は遅かれ早かれ市場から淘汰(とうた)されることになる。
現に、今回マスクを高額で売りさばいた諸田氏もこのままでは再選も難しいほど炎上している。他にも、マスク60枚を1万7000円で販売したセブン-イレブンの店舗は、これで得た売り上げをはるかに上回る信用毀損とブランド価値低下を本体に与えたといわざるを得ない。
ここまで考えると、そもそも市場と道徳を対立構造として認識するのではなく、両軸に根ざした意思決定こそがむしろ社会全体の利益を高めていくといえるだろう。
中央大学法学部卒業後、Finatextに入社し、グループ証券会社スマートプラスの設立やアプリケーションの企画開発を行った。現在はFinatextのサービスディレクターとして勤務し、法人向けのサービス企画を行う傍ら、オコスモの代表としてメディア記事の執筆・監修を手掛けている。
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