人口減は予測できたのに、なぜ百貨店は増えていったのかスピン経済の歩き方(3/5 ページ)

» 2020年10月20日 09時10分 公開
[窪田順生ITmedia]

「個人のがんばり」で出店

 では、人口増時代に確立された「昭和の百貨店」路線をつき進む中で、なぜこんなペースで出店できたのかというと「がんばった」からだ。若い客が増えていかない中での拡大路線という「無理」の帳尻を合わせるために、百貨店で働くすべての人々が努力をしたのである。

 それがよく分かるのが、日本百貨店協会が経産省の審議会に提出した『百貨店業界の「低炭素実行計画」』(2016年2月18日)という資料だ。それによれば、90年の百貨店の年間総営業時間は2847時間だったが、91年の大店法規制緩和によって、97年になると3139時間、99年には3285時間と10年弱で438時間も営業時間が延長されていく。これはつまり、年間の休館日が18日も減った計算になる。

 しかし、働く時間は増えても結果が伴わない。この資料によれば90年の売上高は9兆3302億円だが、そこからじわじわと減って99年は8兆9936億円。18日分の営業時間を延長させたにもかかわらず焼け石に水なのだ。そして、この売上減は2000年代に入るとさらに勢いを増す。

 00年11月、今や世界の小売業を滅ぼしているアマゾンが日本でもサービスをスタートさせる。そこから右肩あがりで、ネット通販市場が拡大していくのはご存じの通りだ。地方百貨店の天敵、イオンモールも2000年代から出店を加速させていく。もちろん、少子高齢化もさらに進行していく。

 じわじわと苦境に立たされた百貨店の店舗数は10年に261店と、90年とほぼ同じ水準に戻った。しかし、この20年で労働環境は大きく変わった。90年の百貨店に比べて、10年の百貨店はなんと631時間(約26日)も多く営業をするようになったのだ。そして、そんな「個人のがんばり」への依存を強めながらも、売り上げは20年前から3兆円も減っていた。「働けど働けど我が暮らし楽にならざり」という典型的な構造不況に陥っていたのだ。

 ここまで言えば、筆者が何を言わんとしているか分かっていただけたのではないか。繰り返しになるが、日本では少子高齢化の危機が60年代からずっと叫ばれていて、90年代に入ると、「1.57ショック」など出生率の目に見えた減少ぶりから、待ったなしの状況が続いていた。

 にもかかわらず、百貨店は出店を続けた。「新たな顧客を開拓すればなんとかなる」「まだ百貨店に来ていない層にリーチをして」なんて感じで、都合の悪い話には耳を塞いでボコボコ新規出店を続けてきた。それを成り立たせていたのは、百貨店というビジネスモデルが通用していたからではない。

 営業時間を延長して、休みを削っても文句ひとつ言わずに、明るく接客してモノを売り続けた現場の人々の「がんばり」に支えられていたのだ。

 しかし、いくら喉を枯らして、接客に注力しても「個人のがんばり」には限界がある。フリーフォールのように減っていく売り上げを食い止めることはできなかった。百貨店の倒産をコロナのせいにしているが、その以前から、地方の百貨店に平日に行けば、心配になるくらいにガラガラだった。コロナはあくまで背中を押しただけにすぎないのだ。

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