仕事上の人間関係に悩むとき 唱えたい茶道の精神「和敬清寂」茶道に学ぶ接待・交渉術(2/3 ページ)

» 2022年12月18日 06時00分 公開
[田中仙堂ITmedia]

「敬」うべきは上司だけではない

 「敬」とは尊敬のことで間違いありません。しかし、『論語』では、敬にも深い意味が与えられています。

 孔子が、弟子の子路から、君子とは何かと問われたときには、「己を修めるに敬を以てす」と答えています。弟子からの問いかけに、孔子は一律の答えをせずに、問うてきた相手に合わせて答えを与えました。子路は、武勇を好んだ人物で、いささか軽率なところがあり、それを孔子はたしなめつつも、真っすぐな性格を愛していました。そこから考えれば、子路に対しては、孔子は、「軽挙妄動に走らず、自分をもっと大切にして修行していけば君子になれる」と諭したのでしょう。

 敬の根本には、自分自身を大切にすることが含まれているのです。大切な自分自身だから修行をする。同じように、他者にとっては他者が大切だと認識することから、他者を尊重し、他者と自分との関係も尊重していくことにつながると考えてみたいと思います。

 終身雇用制度の下では、職位と能力は一致するものと見なされていて、敬う相手は、地位が上の人という風に意識されていたかとも思います。しかし、年功序列が崩壊しつつある現在は、それぞれの人がそれぞれのキャリアを積み上げてきたことを、職場での地位に関わらずに尊重することが今までになく求められているのではないでしょうか?

「清」くあるには、悪意ある解釈を与えない振る舞いをする

 「清」は、「寂」とつなげて「静寂」と解され「静」と説かれることもあるようです。四つの文字それぞれに意味があるとして解釈していくには、「清」である方が望ましいと思います。

 「清」と考えると、「清潔」のことになります。しかし、今日「清潔」というと、汚れていないという状態で、要求される衛生状態は、無菌状態に近くありつつあります。

 衛生状態の要求が高まるにつれて、人柄や行いに対して「清潔」という言葉が使われる頻度はだいぶ減ってきたように思います。人柄や行いに対して、クリーンな状態なら、「清廉潔白」が使われます。「清潔」が衛生状態、「清廉」が人間に対する評価と使い分けられているのが現代です。

 同時に、今日では、自分から「清廉潔白」と主張する人は、疑いの目で見られる時世になってきました。「清廉潔白」と主張した人がそうでない例をあまりに見せつけられてしまったという不幸な経験の蓄積の結果ともいえましょう。また、疑惑を抱かれたというだけで失点と考える傾向は、「世間をお騒がせしました」という謝罪会見での常套句にも反映されているように思います。現代は、衛生状態に関しても、人間に対する評価にしても、高い基準が求められている時代といえましょう。

 「清浄潔白」といえば、物に対しても、人柄や行いとして外在化する心の在り方についてもカバーすることができます。「清」は、「清浄潔白」が略されたものと考えていただくのがよろしいかと思います。「李下に冠を正さず、瓜田に沓(くつ)を入れず」といわれているように、疑惑を持たれないようにするのが君子に求められてきたことでした。スモモの下で、帽子を被りなおしたり、瓜畑に入り込む、という行為にビジネスシーンで該当するものは何でしょうか。

 セクハラ・パワハラの疑惑を持たれないように部下と面談する際に部屋の扉を開けっ放しにしておくとか、仕事を発注する立場なら、便宜供与を求めての収賄を疑われないように取引先に私的な仕事は頼むのを控えるとか、自分の行動に対しての第三者から悪意ある解釈が成り立つ可能性を想像する努力が求められます。自分では決してそんなつもりはない人ほど、悪意のある解釈を考えることは難しい課題かもしれません。しかし、空気や水は常に流れて入れ替わっているから「清い」のだと考えれば、外からの見方を自分の中に取り入れて、よどんでしまわないにすることが求められているのではないでしょうか。

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