最低賃金「1000円突破」を歓迎すべきではない、これだけの理由(2/2 ページ)

» 2023年09月27日 07時00分 公開
[神田靖美ITmedia]
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最低賃金制度は必要か

 そもそも最低賃金制度なぜあるのでしょうか。一般に、賃金がどこまでも下がっていくのを防ぐためにあるとされます。

 賃金は、労働力の需要と供給のバランスで決まっており、通常はどこまでも下がるということはありません。しかし08年の世界金融危機(リーマンショック)のように厳しい経済情勢になれば賃金は下がり、失業が増えます。夫が働き、妻が専業主婦である家庭では、妻が新たに働きに出ようとすることもあります。すると、ただでさえ賃金相場が下がっているところに、新たに働きたいという人が押し寄せて、賃金相場はマイナスの循環に入ってしまいます。こうした事態に陥らないよう、法律が歯止めをかけているというわけです。

 仮に夫が失業したときに、妻が働きに出ようとしても志願倍率が高くて働けないような状況があったとしましょう。それでも低賃金の労働はさせない方が良いのかという疑問が生じます。

 実は、最低賃金は労働経済学者の間で必ずしも評価が高い政策ではありません。米国では最低賃金が1%上がると、最低賃金に近い賃金で働いている労働者の雇用は0.006%から0.15%減り、労働時間は0.3%減るという分析結果があります。日本でも最低賃金が雇用に影響を与えないという研究結果はありません。

 全国労働組合総連合会(全労連)は、最低賃金を全国どの都道府県でも1500〜1600円まで引き上げるよう主張しています。しかし1時間1500円ということは、法定労働時間の上限である1カ月173.8時間に換算すると26万円余りです。これは23年の大卒初任給の平均値である21万8324円(産労総合研究所『2023年度決定初任給調査』)をはるかに上回ります。いま最低賃金をここまで引き上げたら、倒産と失業率が同時に跳ね上がるに違いありません。

 ただ、最低賃金制度がなければ、賃金がどこまでも下がって行くというわけではありません。スイスは、平均賃金が日本円にして月130万円余りという、世界でも有数の豊かな国として知られています。同国では最低賃金は法定ではなく、団体協定(労働団体と行政府の協定で決める)で決まります。職種によって異なるものの、最も低い職種でも日本円にして月35万円ほどです。しかしこの賃金で働こうとする人はおらず、最低賃金は意味を持っていないとされています。

 米国の事例も紹介します。同国では、連邦最低賃金は現在7.25ドル(1050円程度)で、日本と大きく違いません。しかし、これは09年に改定されたもの。定期的に見直すわけではありません。実際の最低賃金は各州が決めることになっており、最も高い州で16.1ドル(2330円)を記録する一方、最低賃金の定めがない州も存在します。つまり「各州の最低賃金は7.25ドルを下回らないこと」という決まりを作って、経済成長著しい米国ではそれを14年間放置しています。日本の法定最低賃金とは性格が大きく違います。

 これらのことは、最低賃金制度が必ずしも必要ではないことを示しています。

最賃引き上げはフルタイム・パート世帯主のためになるか

photo 画像はイメージです(提供:ゲッティイメージズ)

 最低賃金の話になるとどうしても、引き上げるべき根拠として報道で取り上げられるのは、フルタイム・パート労働者が世帯主である家庭の状況です。

 しかしフルタイムで世帯主というのは、パートの中でもむしろ少数派です。02年のデータですが(※1)、最低賃金労働者のうち年収300万円未満の世帯の主である人は15%に過ぎません。最低賃金労働者の半分は年収500万円以上の世帯の一員です 。

(※1)『最低賃金はどのように決まっているのか』(労働政策研究・研修機構『日本労働研究雑誌』2009年12月号所収)

 つまり、最低賃金労働者の多くは、おそらく扶養の範囲内で働きたいと考えている主婦や、親に十分な収入がある学生による、本当の意味でのパートタイム(一部の時間)労働者です。

 さらに、最低賃金が上がったとき、必ずしもパートの人たちの収入が増えるとは限りません。パートの賃金を法律で無理やり上げたら、パートは企業にとって採算が悪い労働者になってしまいます。すると企業はパートの頭数や労働時間を減らして、その分正社員の賃金を上げて、より効果的に働かせようとするかもしれません。

 実際、00年に米国で行われた研究では、最低賃金の上昇は非労働組合員より、高所得・高スキルの労働者がより多い労働組合員に、賃金で2倍の恩恵をもたらしており、組合員の労働時間を増やし、非組合員の労働時間を減らしているという結果が出ています 。最賃引き上げは、実はパートよりむしろ正社員のためになっているということです。

 川口大司・東京大学大学院教授と森悠子・津田塾大学准教授は「最低賃金の引き上げは貧困世帯を効率的にターゲットにしていないという点で有効な貧困削減対策とはいえない」と述べています 。

能力開発にも影響

 最低賃金が過度に高くなると、不都合なことがもう一つあります。能力開発をしなくても済むようになることです。仮に最低賃金が1500円になると、当然、高校生のアルバイトも時給1500円以上になります。するとフルタイム(1カ月173.8時間)で働けば26万円あまりの収入になり、アルバイトでも十分生活することができるようになります。そうなると、中には学業を放棄したり、ないがしろにしたりしてアルバイトに励む若者も現れます。現に米国では、最低賃金が上がると明確に教育が減るという分析結果があります(※2)。

(※2)大橋勇雄『日本の最低賃金制度について―欧米の実態と議論を踏まえて』(労働政策研究・研修機構『日本労働研究雑誌』2009年12月号所収)

 若いうちはフリーターでも生活できるかもしれませんが、特別な知識や技能を必要とせず、勤め先が教育訓練もしてくれないような仕事を長く続けると、失業した際の再起は困難です。能力開発をしなければ生活できないという環境は、ある程度必要です。

最低賃金はこれからも上がり続けるのか

 最低賃金が来年以降も上がり続ける余地は小さいでしょう。

 まず、最低賃金を全国平均で1000円にするというのは、15年に安倍政権が立てた目標であり、今回それを達成しました。

 また、1時間1002円ということは、法定労働時間の上限である1カ月173.8時間に換算すると17万4148円です。これは高校卒初任給の全国平均である17万9680円(産労総合研究所『2023年度決定初任給調査』)と大差ありません。

 中央最低賃金審議会が、最低賃金が雇用や能力開発にマイナスの影響を与えることを把握していないはずがありません。最低賃金を、企業にとって最も待望する層である高校新卒者の賃金と同額まで引き上げるとは考えづらいでしょう。

 最低賃金を引き上げることに、政府の財源は要りません。最低賃金を上げれば国民の生活が良くなるのなら、とうの昔にやっているはずです。豊かになるためには、すでに欧米諸国が取り入れているような、教育訓練を充実させる以外の政策はないのではないでしょうか。

著者紹介:神田靖美

人事評価専門のコンサルティング会社・リザルト株式会社代表取締役。企業に対してパフォーマンスマネジメントやインセンティブなど、さまざまな評価手法の導入と運用をサポート。執筆活動も精力的に展開し、著書に『スリーステップ式だから、成果主義賃金を正しく導入する本』(あさ出版)、『会社の法務・総務・人事のしごと事典』(共著、日本実業出版社)、『賃金事典』(共著、労働調査会)など。Webマガジンや新聞、雑誌に出稿多数。上智大学経済学部卒業、早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了。MBA、日本賃金学会会員、埼玉県職業能力開発協会講師。1961年生まれ。趣味は東南アジア旅行。ホテルも予約せず、ボストンバッグ一つ提げてふらっと出掛ける。

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