東京圏の構造が大きく変わることになったのは、1923年9月1日に発生した関東大震災がきっかけである。このとき、下町にある住宅や中小工場が密集したエリアが大規模な火災により焼失した。大震災の前後に、山手線各駅を起点に郊外へと向かう私鉄が誕生。その沿線に多くの人が移住していった。
こうして、東京圏は「職住近接」から「職住分離」へと都市のモデルが移行していった。都心はビジネスや官公庁、繁華街になり、そこで働く人はその近くに暮らすのではなく、郊外に住み電車で通うようになっていった。
東急電鉄の事実上の創業者といわれる五島慶太氏は、東急電鉄の前身である目黒蒲田電鉄の経営を掌握(しょうあく)し、沿線開発と鉄道事業をリンクさせるビジネスモデルを採用した。そして渋谷からは東急、新宿からは京王と小田急、池袋からは西武と東武という現在の姿がつくられる。これらの街に私鉄のターミナルができ、都心に向かう乗り換え客が利用することになった。
特に新宿駅は、私鉄各路線や山手線から中央線に乗り換える人が増えていった。池袋駅や渋谷駅は路面電車との接続駅になる。渋谷駅には1938年12月、現在の東京メトロ銀座線である東京高速鉄道が開業する。これにも五島氏が関与していた。
こうして関東大震災後、東京の人の流れが西側を中心に回るようになったのだ。だが、東京圏は再び大きな被害を受ける。1945年3月10日の東京大空襲だ。このエリアは木造の建物が多く、人が密集している下町地域がターゲットになった。同年5月25日には山の手大空襲もあった。
終戦後、東京は復興へと向かう。その中で住宅不足が問題になった。団地ができ、その後ニュータウンも建設された。東京都内では、主に東京の西側につくられた。それゆえに新宿、渋谷、池袋の各駅には、さらに人が集まるようになった。
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