このような事情から、モノレールは“モノ”にならないという雰囲気が業界に広がり、1964年6月に設立されたばかりの日本モノレール協会は、早くも「会費収入の面に危機が現われた」(『日本モノレール協会 10年の歩みをふり返って』より引用)という。
こうした状況に対し、モノレールの技術的改良と標準化を目的として、モノレール協会が運輸省(当時)からの受託で取り組んだのが「都市交通に適したモノレールの開発研究」(1967年度)だった。
この研究を通じて跨座型に関しては、二軸ボギー台車と小径のゴムタイヤを組み合わせた日本跨座式という新たな車両規格を生み出し標準化した。客室内にタイヤの格納部が突出して床面がフラットにならないアルヴェーグ式の欠点を改良したのだ。一方、懸垂型はサフェージュ式を標準仕様として採択した。
技術面の改良と並行して、日本モノレール協会はモノレール関連立法を進めるために国会への働きかけを行い、1969年11月に都市モノレール建設促進議員懇談会が発足した。こうした一連の努力が功を奏して1972年11月、都市モノレール整備の円滑化のための財政措置、道路管理者の責任等を定めた「都市モノレールの整備の促進に関する法律(都市モノレール法)」が制定された。
ただし、都市モノレール法は「国及び地方公共団体は、都市モノレールの整備の促進に資するため必要な財政上の措置その他の措置を講ずるよう努めなければならない」という抽象的な努力義務を規定しているにすぎず、実際の効果を期待するには、別途、具体的な措置が必要とされた。
財政措置に関しては、1974年度予算で、都市モノレールのインフラ部分(支柱、桁など)を道路構造の一部として整備する「インフラ補助制度」が認められた。これにより、モノレールが道路の構造物の一部として、国の補助の下に建設される仕組みが整えられたのである。このインフラ補助制度は、1975年度には新交通システムにも対象が拡充された。
こうして整備の土壌が整ったモノレールは、その後、各地で建設が進められ、現在8事業者の10路線が運行されている。しかし、当初の期待値の大きさからすれば、路線数は少なすぎると言わざるを得ない。
なぜ、モノレールは広まらなかったのか。
新交通システムというライバルの台頭もあったが、建設費用が想定していたほど安くなかったのが大きかった。1971年に大船-湘南江の島間(6.6キロ)が全通した湘南モノレールを例に挙げると、当初の建設費は約35億円(1キロあたり約5億円)と見積もられていたが、用地買収費などがかさみ、最終的には60億〜65億円(1キロあたり約10億円)にも上ったのだ。
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