1級FP技能士・FP技能士センター正会員。中央大学卒業後、フィンテックベンチャーにて証券会社の設立や事業会社向けサービス構築を手がけたのち、2022年4月に広告枠のマーケットプレイスを展開するカンバンクラウド株式会社を設立。CEOとしてビジネスモデル構築や財務等を手がける。Xはこちら
国民民主党と政府与党が協議を続けている所得税「103万円の壁」引き上げに先立ち、厚生労働省が「106万円の壁」の撤廃を検討しているという報道が、大きな注目を集めている。
「106万円の壁」とは、収入が月額8万8000円を超えると、厚生年金保険料や健康保険料といった社会保険への加入が義務付けられる制度を指す。従来、この基準は「従業員が51人以上の事務所」「収入月額が8万8000円以上」「週20時間以上働く」「学生以外」の労働者に適用されてきた。
新しい方針では、これらの条件の一部が緩和され「週20時間以上働く学生以外の労働者全て」に加入義務が生じる見込みだ。これにより、従業員が少ない企業や、収入が月額8万8000円を下回る労働者も対象となり、社会保険料の加入者が数百万人単位で増加する可能性が指摘されている。この状況では「壁の撤廃」というよりも、「週20時間の壁」といった方がより正確ではないか。
厚生労働省は、一定の所得以下の場合に企業が社会保険料を肩代わりする特例制度の導入を検討しているが、既に従業員の社会保険料を半額負担している企業にとって、さらなる雇用コスト増加は避けられない。
人件費割合が高いサービス業や小売業では、社会保険料負担が経営を圧迫し、事業継続が困難になるケースも懸念されている。
では、そんな状況下で企業が取り得る対策はどのようなものがあるのだろうか。ここでは3つ紹介する。
まず、飲食や小売業界で拡大すると考えられるのが、これまで以上に細切れのシフトを組み、週20時間未満でおさまる「短時間労働者」の割合を増やすことだ。
シフト管理を細かく調整することで、多様な働き方を求める労働者をひき付ける効果が期待できる。特に、タイミーのようなスポットワークサービスの求職者が好むだろう。
しかし、このやり方は管理業務の負担が増大し、勤怠管理が複雑化する恐れがある。また従来の労働者にとっても、シフトが細切れになることで労働者の収入が減少したり、十分なノウハウやスキルが身につかなくなったりというリスクが生じる。これは、労働者の満足度が低下し離職率が上がる可能性があるだけでなく、顧客に提供するサービス品質の低下も懸念される。
また、初めてその職場で働く別々のスポットワーカーに、同じことを場合によっては何百回、何千回も説明するコストは無駄になりかねない。週20時間以内でシフトを組むとするならば、現状既に顕在化している「教育コスト」の負担がさらに増大なるリスクもある。
2点目に「個人事業主」の割合を増やすという対策が増加するだろう。これはITやサービス業、中小企業などで拡大すると考えられる。従業員ではなく、フリーランスといった「個人事業主との業務委託契約」を軸に事業展開することで、企業は社会保険料負担を回避できる。
社会保険料を負担するのは個人事業主側となるため、企業は「週20時間の壁」も気にしなくてよい。さらに労働基準法の保護対象外となるため、労使関連の訴訟リスクも低下する。
しかしこれは、当然ながら適法な「個人事業主との業務委託契」に限られることには、十分に注意したい。
実質的に労働者と同様の働き方を求めた場合、偽装請負と見なされる可能性があり、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金刑を受ける危険がある。具体的には、業務のやり方や出勤時間、出勤日などについて、企業側が口出しや指示をすれば、その時点で偽装請負になると考えてよい。
また、適法な業務委託であるとしても、個人事業主化を進めると従業員の帰属意識が低下し、長期的な人材確保が難しくなるといった特有のリスクもある。
最後に「正規雇用への採用方針転換」が挙げられるだろう。これは主に大企業で採用が進む対策方針であると考えられる。
正規雇用は給与や福利厚生のコストが高く、企業にとって負担が大きい。取り組めるのは大企業など一部に限られるだろう。
安定した労働力を確保が可能し、長期的な育成のために、スキルアップやキャリア形成を支援しやすくなるため、企業の競争力向上につながる。また、定着率が向上し、採用コストや教育コストの削減が期待できるといったメリットがある。
一方で、短期的な労働力需要に柔軟に対応することが難しくなる。
ここまでで3つ、企業が取り得る対策を検討したが、やはり理想としては最後に挙げた「正規雇用への方針転換」であり、当局の意図もここにあるのではないかと思われる。しかし、この方法は長期的な投資という側面も大きく、体力のある大企業でなければすぐに対応することが難しい。
そうなると、中小企業や飲食・小売業においてはスポットワーカーを増やすなどして目先の社会保険料コストを減らす手法が最も増えそうだ。その他のサービス業などにおいては、業務委託契約を中心に業務を回すことで社会保険料負担を減らす方法が適切となるだろう。
ここまで考えると、「106万円の壁」が「週20時間の壁」に移行した場合、中小企業を中心に、シフトを細切れにし、労働者はスポットワークなどで掛け持ち先を増やすなどの形で社会保険の適用を回避する動きが加速すると考えられる。
そうすると、厚労省が見込む「社会保険適用者数の増加≒社会保険料収入の増加」は思ったほどの効果を上げない可能性もあるのではないだろうか。
むしろ、これまで扶養内で働きたい人々にとっては、複数の働き口を見つけて時間をより複雑に調整しなければならなくなるため、手間だけが増え、特化したスキルもつけにくくなる。そんなlose-loseの関係に陥ることすら懸念される。
このように「106万円の壁」撤廃は、その施策が単体で稼働する場合、労働市場に多くの弊害をもたらす可能性がある。増加分の社会保険料を企業に負担させる特例についても、企業に何らかのメリットがなければ、どこも利用せず、形骸化は避けられない。
ただし「週20時間の壁」が企業にとっても労働者にとっても有利に働くケースはある。それは「大幅な賃上げが実現した場合」だ。
例えば、パートタイマーについて時給1500円が当たり前の社会となった場合を考えよう。
このとき、週20時間の壁で稼げる月額の上限額は
1500円×20時間×4週間=12万円
となり、従来の月額8万8000円よりも有利な条件になる。
そうすると、より労働者や企業が週20時間の壁を受け入れやすくするためには、「企業が労働者の社会保険料を肩代わりする」ような応急的な施策ではなく、「企業の賃上げに対し、減税や助成を行う」といった本質的な措置を検討するべきではないか。
「106万円の壁」の撤廃が「週20時間の壁」へと進化する中、課題を解決するには、政府、企業、労働者が連携し、包括的な改革に取り組む必要がある。社会保険制度の公平性と持続可能性を確保しつつ、労働市場の柔軟性と生産性を両立させるためには、賃上げに加え、103万円の壁や130万円の壁といった俯瞰的な政策実現が求められる。
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