――今回のリニューアルでは施設全体を大きく見直したと思いますが、変革というのはなかなか簡単ではありません。従業員からの反発もあったのではないでしょうか。
そうですね。正直に言えば、私がここに来て「いろいろやりたい」と話したときに、周りからは「変わった人が来たな」と思われたと思います。これまでの経営者で、そこまで大胆に舵を切った人はいなかったでしょう。ただ、私は「今やらなければ手遅れになる」と強く思ったんです。今後10年、20年を見据えたときに、変革は避けられません。
銀行から融資を受ける際には、自分で事業計画書を作りました。ビジネスホテルやシティホテルと比較して、グリーンランドがどのポジションにあるのか、顧客ニーズはどこにあるのかを分析し、資料にまとめたのです。私は建築の専門知識があったので、構想からコスト試算まである程度自分で行うことができました。コンセプトや施設の在り方は、増田さんと作っていきました。
確かに初期投資は膨らみますが、長期的に見ればランニングコストの削減や顧客満足度の向上によって、十分に回収できると判断しました。その考えを会長である叔父と銀行に説明し、最終的に融資実行に踏み切ったのです。
もちろん際限なく投資できるわけではありませんので、重点を絞りました。レストラン、横のリクライニングスペース、そして新たに「ワーケーション」をキーワードに導入した仕事環境です。ここではオンとオフの切り替えが自在にできます。仕事がしたければ静かなスペースで集中でき、自分の時間を過ごしたければスナックエリアやレストランでくつろげる。さらにサウナに入って自律神経を整えれば、新しいアイデアも自然に湧いてくる。こうした多様な動線を意識したのです。
建築士とも連携して、ゾーニングをしっかり設計しました。それぞれのスペースにどういう人が集い、どのように使ってほしいかを考え、大きく5つのゾーンに整理しました。これによって例えばオンラインミーティングにも対応できるし、プライベートなやり取りも安心してできるようになりました。
これまでのカプセルホテルでは、こうした「通話する場」がほとんど想定されていませんでした。心理的ハードルが高い部分を解消できたのは、今回の改善の大きな成果だと思っています。
幸い私は建築の経験がありましたので、このゾーニングの決め方や動線の設計は非常にスムーズに進みました。「こうあるべきだ」というイメージがすぐに形になり、建築士に具体化してもらうことで、半分は私の発想、半分は専門家の手腕によって理想の形に近づけたのです。
――九州電力時代はどのようなキャリアを歩んできたのでしょうか。
18歳で工業高校の建築科を卒業し、そのまま九州電力に入社しました。最初は大分支店に配属され、変電所や営業所の設計、さらには支店内のレイアウト変更など幅広い建築業務に携わっていました。当時の上司から「君は現場向きだ」と言われ、玄海原子力発電所に異動することになったのです。そこでは原発内の保管庫の設計や施設評価をし、スーパーゼネコンの方々と協働する機会もありました。非常に専門性が高い現場で、多くを学べたと感じています。
その後は川内原子力発電所に勤務し、一時的に北九州に戻った期間もありましたが、その後は青森県六ヶ所村の日本原燃に出向しました。ここには全国の電力会社が共同出資して建設した放射性廃棄物の処理施設があり、私は設計業務に携わりました。各社から来た社員やプロパーの方と共に働き、異なる立場の人たちと折衝する機会も多かったため、今振り返れば経営者として必要な素養を養う場にもなったのではないかと思います。
ただ、当時は経営者になろうなどとは全く考えていませんでした。九州電力は安定した優良企業ですし、自分は会社員として定年まで勤め上げるものだと信じていました。ですから、叔父から「継いでほしい」と話を受けたときは正直悩みました。
実際オファーを受けてから答えを出すまで、4〜5年は時間をかけました。当時私は本社で大きな設計プロジェクトを進めている最中で、国との折衝を経てようやく形になろうとしていたんです。途中で辞めるわけにはいかないと考え、「最後まで現場で見届けたい」と上司に希望を出し、最終的に2年間現場でやり切ってからグリーンランドに移りました。
結局23年間、九州電力に勤務しました。家族もあり、生活の安定を捨てて新たな道に進むのは大きな決断でしたが、「こういう機会は人生に一度しかない」と考え、腹を決めたのです。
――最初に叔父から後継の話を打診された時は、どのように受け止めたのですか。
母の弟が先代の社長で、私は昔からとてもかわいがってもらっていました。私は次男ということもあって、自然と後継候補として見られていたのだと思います。当時、叔父は64歳くらいで、そろそろ世代交代を考えなければならないタイミングでした。ただ、私自身はすぐには踏み切れませんでした。現場での大きな仕事がまだ残っていたので、「最後までやらせてほしい」と希望し、2年ほどは続けました。その間も考え続け、ようやく「自分が抜けても大丈夫だ」と思えるタイミングで退職を決断しました。
辞表を出した時はありがたいことに引き止めてもらいました。しかし私は、もう退職して何もしないわけではなく、次の挑戦が待っているのだとお話ししました。自分の中で4〜5年かけて結論を出し、理解を得た上で円満退社できました。
――九州電力で建築技術者の経験が、空間設計や全体の動線を考える発想につながっているのですね。
そうだと思います。私は長く建築の仕事をしてきましたので、「この空間を使うことでどういうメリットが生まれるか」を常に考えていました。その習慣が、いま施設運営側に立ったときにも自然と役立っていますね。
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