なぜタミヤはクオリティの高い商品を生み出し続けられるのか?:一大ブームの仕掛け人たち(1/4 ページ)
ミニ四駆ブームがいかに起きたのかについて前回紹介したが、そのメーカーであるタミヤの商品クオリティの高さが1つの要因であった。そこで今回はなぜタミヤが優れた商品開発を行えるのか、そのバックグラウンドに触れたい。
前回の連載記事で、ミニ四駆のブームがどのようにでき上がっていったのかについて、一関係者の視点から舞台裏をお話した。その中で成功の要因の1つに「おもちゃではなく、タミヤだった」からだと述べた。
そこで今回は、タミヤという会社がいかにしてクオリティの高い、そしてクリエイティビティに富んだ商品開発を行っているのか、そのバックグラウンドに触れておきたい。
クリエイターを培養するタミヤ
タミヤに入社後、筆者が配属された企画部デザイン室では、新入社員実習を終了した後も配属先実習と週次の課題が続いた。取材や製品撮影に備えてのカメラ実習では、撮影の手順にとどまらず、暗室での現像、ベタ焼き、紙焼きまで叩き込まれる。週次の課題は、デッサン+淡彩、レタリング、新聞広告原稿のリレイアウト、テーマを課されたモノクロ写真作品の提出まであった。
その提出先は、このデザイン室の顧問として、星のマークのロゴからパッケージデザインなどの意匠全てをプロデュースし、タミヤのci(corporate identity)を確立した田宮督夫(たみやまさお)先生だ。課題のデキがいまいちだと、痛いほど眼目を突かれて叱られるが、目の前でそのノウハウやセンスを注入してもらうことができたし、関心を示すことには数歩先を見据えて「やってみなさい」と機会を与え、スタッフ一人一人の才を伸ばそうとしてくれる親のような存在だった。
クリエイティブにかかわる頂点と底辺とのダイレクトなリレーションと、作業レベルをきちんと底上げしようとする環境によって、現場の末端まで「タミヤデザイン」が充填(じゅうてん)されていくのだった。
ここでは、タミヤの商品パッケージを象徴するスーパーリアリズムのイラストレーションも制作されるほか、スライドマーク(水に浸して模型に貼るシール)やデカールの制作、総合カタログ、資料写真集、タミヤニュースをはじめとする印刷物の原稿制作と編集が行われる。さらには、RCカーやミニ四駆のボディデザインのフィニッシュアップなどのID(インダストリアルデザイン)、イベントや展示会などの会場レイアウトやディスプレイを担当する人材も擁していて、タミヤの製品企画、印刷物、販促に関するアートワークの一式を一貫して手掛けているのだった。
設計室、金型製作、木型製作、工作室など、他の部署のクリエイター陣も社内で一から教育され、良い意味での年功序列がまだ残っていたせいもあるが、職人の域まで習熟していけるような枠組みが備わっていた。
枠組みついでの話になるが、でき上がった成型品(パーツ)をパッケージングするセット工場では、品質管理室が成型工場からの納品物をカートン単位で検品するのだが、キズや汚れはもとより、検体に少し光を当てないと見えないような離型剤の痕(あと)が確認されただけでも金型の管理状態を指摘して全て返品した。この作業は新入社員実習でも通る道で、成型品を見極めるエッセンスが注入される。ここで大半の社員はその状態を厳しく見る目を備えることができるのだ。
タミヤのブランディングは、ブランドを企図して構築しようとする後付けのそれとは違って、こうした厳たる企業風土や企業資質によって成立していることを、他社や他業種の状況を見聞きしながら何年か経って思い知るのだった。
余談だが、筆者にとってデザイン室のパッケージイラストレーターは、部署内の“花形スタッフ”の1つだった。新人1年目には、毎朝、イラストレーター陣が前日に使った何十枚もの白磁の絵具皿、水入れ、筆類をしっかり洗って、7時55分開始の朝礼までに各々の作業台に整えておくという徒弟タスクが現然としていた。これを続けるうちに、「いつか自分もパッケージイラストを手掛ける日がくるのだろうか?」などと思いを馳せた日もあった。しかし、半年も経たないうちに技能的に追いつけないことが身に沁みて、仕事のできる諸先輩の完成度やスピードに圧倒されては、自分を問い詰めて沈んでばかりいた。筆者はあきらかに落ちこぼれていたのだ。
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