なぜタミヤはクオリティの高い商品を生み出し続けられるのか?:一大ブームの仕掛け人たち(4/4 ページ)
ミニ四駆ブームがいかに起きたのかについて前回紹介したが、そのメーカーであるタミヤの商品クオリティの高さが1つの要因であった。そこで今回はなぜタミヤが優れた商品開発を行えるのか、そのバックグラウンドに触れたい。
タミヤの「三河屋」になっていた
当時のタミヤには宣伝部も広報部もないのに、筆者が出版社やその関係者を訪問するようになってしばらく経つと「宣伝部デザイン室」というそれらしい名刺を使うようになった。一日の出張でできるだけ効率よく複数の編集部に往訪するといった古典的なパブリシティ活動だったので、静岡から東京へ、肩に完成品入りのRCカーバッグを掛け、両手に資料一式を下げて新幹線に乗り込んだ。多いときは、出張は週に2〜3回のペースになっていった。
思わせぶりな名刺とは裏腹に、宣伝予算なんていっさい握らせてもらっていないので、AD(広告)とは全く切り離した純然たるパブリシティをもって、いかにして“模型”を効果的に露出し、各々の読者層に関心をもってもらうか腐心した。
当然、アプローチの段階で門前払いされたり、事前にきちんと目的を伝えてあっても広告出稿の話しじゃないと分かった途端、突如舌を打って退席されたりもした。いろいろあったが、接していただいた多くの出版社の編集、宣伝、広告の方々からは、媒体別(ターゲット別)のマーケ施策やそのノウハウをうかがい知ることができて、今でも役に立っていることが多い。
一方で、ある雑誌の編集長からは「三河屋さんみたいだ」と言われることがあった。顔を見て歌舞伎俳優の屋号で呼ばれたのではなく、御用聞きの意味だった。こちらの目的を全て理解した上で、広告出稿以上に助かることだと労われ、毎月定期的に来てくれと言われた。この仕事に自信を持って取り組める一言になった。
実際、意図してADありきのコラボレーションは断じた。その編集部主動の企画でなければ製作協力する道理も立たないし、ホビージャンルの企画に広告臭が加わったら、双方に良いイメージが着かないと考えていたからだ。タミヤは出すべき時期や媒体には計画的出稿を行っていたが、広告費用に換算した額を遥かに超えるコストを掛けた製作協力は何度もあった。パブリシティであっても、むしろ手を抜かなかった。
つい思い出してしまうが、東京でのこうした活動の際は、静岡を出て朝9時には都内の広告代理店に入って荷物を置き、そこを拠点にした。帰りはたいてい最終の新幹線に乗れなくて、今はもうなくなった東海道線の大垣行きで静岡に26時過ぎに着くパターンだった。それにも乗り遅れたときは、翌日鈴鹿で取材があるという自動車雑誌の編集者のクルマに乗せてもらい、明け方に静岡インターで降ろしてもらうこともあった。とにかく、何があっても7時55分には出社しなくてはならなかった。
往訪先の編集部やエディターからのリクエストや反応をほどなく田宮督夫先生にフィードバックすると、次々と矢のように指示が飛んだ。他の部署にも指令が飛んだ。入社して何年も経たない筆者のような下っ端には重たい社内調整も、デザイン室全体で動いてもらうことが多くなっていった。いつの間にか「パブリシティ」が他部署を、会社を、巻き込んでいった。
そうした中、RCカー、そして後にレーサーミニ四駆の大ヒットにつながる運命的な出会いがやってきた。(つづく)
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