“良かれと思った施策”が裏目に バブルを生き延びた「べっぷ駅市場」で何が起きたのか?(1/6 ページ)
半世紀以上に渡って地元住民や観光客に親しまれ、昭和の面影を残す「べっぷ駅市場」。日本一長い高架下商店街はどのようにして生まれたのか、なぜ生まれ変わらなければならなかったのか。
かつて「日本一長い高架下商店街」と言われたJR別府駅(大分県別府市)の高架下商店街が、生まれ変わろうとしている。
半世紀以上に渡って地元住民や観光客に親しまれ、昭和の面影を残す「べっぷ駅市場」は、近年「レトロ映えスポット」としても人気を集めていた。しかし、マイカー客の利便性を図るためのリニューアルによって、徒歩で訪れる客の回遊性が低下。さらに、コロナ禍を経て空き店舗が増加し、窮地に陥ってしまった。
衰退に向かうかと思われた商店街が選んだのは、あえての「攻めの姿勢のリニューアル」だった。前編では、日本一長い高架下商店街がどのようにして生まれたのか、なぜ生まれ変わらなければならなかったのかを解説する。
著者紹介:若杉優貴(わかすぎ ゆうき)/都市商業研究所
都市商業ライター。大分県別府市出身。
熊本大学・広島大学大学院を経て、久留米大学大学院在籍時にまちづくり・商業研究団体「都市商業研究所」に参画。
大型店や商店街でのトレンドを中心に、台湾・アニメ・アイドルなど多様な分野での執筆を行いつつ2021年に博士学位取得。専攻は商業地理学、趣味は地方百貨店と商店街めぐり。
アイコンの似顔絵は歌手・アーティストの三原海さんに描いていただきました。
日本一長い高架下商店街、誕生のきっかけ
別府駅の高架下商店街はいかにして生まれたのか。話は戦後までさかのぼる。
昭和初期、別府市はすでに日本最大の温泉都市となっており、その玄関口の一つである別府駅周辺には多くの商店が立ち並んでいた。第二次世界大戦で多くの都市が空襲の被害を受ける中、別府市はほぼ無傷で終戦を迎えた。「米軍が保養地として活用するために空襲しなかった」ともいわれており、実際に戦後に米軍が駐留することになるのだが、真相は闇の中だ。
いずれにせよ、ほぼ無傷で戦後を迎えた別府市は、復員者や引き揚げ者が集まり、多くの人であふれかえった。戦前の別府市の中心部は別府駅の南東側だったが、戦後、駅の北西側に駐留米軍基地「キャンプ・チッカマウガ」(1956年廃止、現・別府公園周辺)が設けられた。駅西側(現・野口元町付近)には荷車やリヤカーなどを扱う馬車鍛冶屋もあったことから、戦後の経済復興に伴い、踏切を渡る交通量も増えていった。
しかし、別府市中心部の多くの街路は、温泉街が整備された明治末期から大正時代にかけて区画整理されたままの状態だった。市内南部の中浜筋商店街など一部では建物疎開が行われたものの、幸いにも空襲に遭わなかったため、ほとんどの道路は狭いまま。駅周辺の踏切は交通のボトルネックとなった。こうした中、持ち上がったのが別府駅周辺の鉄道高架化だった。
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